第3部 第2章

第1話 結婚したら“灰野”とは呼べなくなる

 彼女と喧嘩した。
 ……というと、やや語弊はあるけど。

 頬を膨らませて、通話を切られて。
 どちらかといえば拗ねているんだろう。

「と、いってもこればっかりはな」

 テレビでは朝の占いがやっている。
 そろそろ出ないとなと思いつつ、ゆったりとコーヒーを飲んでしまうのは灰野にどんな顔で会うべきか少し悩んでいるからだ。

 長い時間を過ごしていれば喧嘩のひとつくらいするだろうが、付き合って1ヶ月も経っていないのだからやや早足だ。

「……本当に順序がおかしいな」

 付き合う前がゼロ距離どころか、マイナスで。
 恋人になってから適正の距離を計ろうとしてあたふたしている感じがする。居心地のいい休憩所以上の関係を求めて、相手のことを知ろうとしてこつんっと衝突事故。

「彼女って難しい」

 ずずっとコーヒーを飲み切る。
 やけに今日は苦いな。

  ◆ ◆ ◆

 いつもよりやや遅めに教室に着くと、当たり前だけど灰野はもう席に……いない。
 休み?
 と、思って、ふと教室の視線が俺に集まっていることに気づいた。

 着替えた……よな? 寝間着じゃない。制服着てるし、靴も履き替えてる。
 目立つようなことはしてない。
 いつもとは違う雰囲気の教室を訝しみつつ、警戒した猫のようにそろりそろりと自分の席に向かって――あぁ、と納得する。

「……そこ、俺の席なんだけど?」
「知ってるよ」

 と、優等生スマイルの灰野が俺の席に座っていた。
 視線の原因はこれか。
 折り目正しく椅子に座っている灰野の前に鞄を下ろす。

「少し佐藤くんにお話があるんだ」
「いま?」
「すぐにでも」

 圧が強いなー。
 メッセージじゃダメだったのかな。……ダメだったんだろうなぁ。でも、放課後まで待つとか……待てなかった結果がこれだよな。うん、全部自己解決できちゃうな。

 笑顔だけど、そのベージュの瞳の奥はなんだか仄暗い気がして、そっと視線を逸らす。

「あれ? どうして目を逸らすの? まるで悪いことをした子どもみたい」
「怖いって」
「どんなイタズラをしたのか、お母さんに言ってごらん……?」

 ネカフェの灰野がちらっと顔を出している。
 別に悪いことはしていないんだけど、早くふたりきりになりたい、という言外の意思を感じる。パンパンに膨らんだ缶詰が手元にあるみたいな気分だ。

 さっさと爆発させたいが……教室だしなぁ。

 そうやって恐れていたら、予鈴が鳴った。そういえば、今日はギリギリだった。
 灰野の瞼がすっと落ちた。

「……場所を変えようか」
「自分の席に戻って」

 サボる気はないと目で伝えると、灰野は小さく唇を尖らせた。それも一瞬で、そうだね、と灰野が笑顔で応じてようやく俺の席を空けてくれた。

「昼休みは付き合ってね?」

 ぼそっとすれ違いざまに耳元で囁かれた。
 ……死刑宣告されたみたい。

  ◆ ◆ ◆

 で、昼休み死刑執行。

「なんでダメなの~」

 パイプ椅子に座る俺の膝の上に、向き合うように座った灰野が抱き着いてくる。コアラみたいだが、コアラにはない大きな双丘がむにっと潰れていて意識が散る。
 これがシゴデキ美人生徒会長の裏の顔とか……誰にも見せられないよな。

「ね~、一緒に暮らそうよー」
「ムリって言った」
「まだ先の話だし、いまから準備すればいけるってー」
「いけない」

 むぅっと駄々をこねるみたいに唸って、首筋に顔を埋めてくる。
 私用で生徒会室を使うのは職権乱用だと思うが、この爆発寸前缶詰灰野を放課後まで放置するのも不安で授業も上の空になりそうなので許してほしい。

 とりあえず、頭を撫でて落ち着かせる。

「大学は家から通うって決めてんの」

 発端であり、灰野がコアラになった理由。
 同棲の提案は嬉しくもあったが、俺の感情ひとつで通るほど世の中は上手くできていない。それでも、納得できない子がいて、なんでーと泣き脅しにくる。

「高校卒業までに準備すればいけるって」
「母親に余計な負担かけたくないんだよ」

 高卒で就職を考えるくらいには。
 母から『大学は行って』と説得されているので、第1希望としては大学だが、それでも第2希望就職くらいのままだ。

 仕事でムリしてないかなーって心配になっているのに、ひとり暮らしで出費は増やしたくない。

 そう言ったら、灰野は「なら、家賃とかは私が出すからー」と粘ってくる。

「やだよ、ヒモは」
「主夫」
「……ちょいちょい灰野は俺を養いたいのかって感じるときがある」
「ちゃんと散歩もするし、ご飯もあげるから~」
「檻に閉じ込めたいの?」
「うん」

 うん、じゃないから。怖いな。

「同棲は早くて大学卒業後かな」
「絶対?」
「絶対」
「鮫がひっくり返っても?」
「ひっくり返っても」

 鮫がひっくり返るのって、天地くらい起きない現象なのだろうか。
 こつこつと肩におでこをぶつけてきたが、膝から滑り落ちるように床にぺたんっとする。

「汚いぞ」

 お小言も左から右。
 お尻をずりずり対面の椅子まで回り込むと、3つの椅子をカシャンッとぶつけるように並べて、その上で寝転がった。

「もういい」

 ふて寝。
 
「灰野?」
「つーん」
「灰野さーん?」
「つつつーん」
「……優莉?」

 あ、落ちた。
 鼻を打ったらしく、涙目で押さえてる。思った以上に効果があったらしい。また、こっちに背を向けて転がりつつも、髪を流して隠れていた耳を表に出している。

 言ってほしいらしい。

「ゆーり」
「…………まぁ、ね? 今回は許してあげるのも、やぶさかではない、かな」
「あざーす」
「軽い」
「ありがとうございます、お嬢様」

 よろしい、と灰野が起き上がった椅子に座る。
 許されないとならないことをしてはいないんだが、灰野の機嫌が戻ったのだからあえて蜂の巣を突く理由もない。

「今日のお昼はなに?」
「俺の弁当なのよ」

 机に乗り出して、人の弁当を盗ろうとしないで。

「えー」

 というので、弁当箱を開けてチーズはんぺんをあーんする。美味しいと笑う灰野を見ていると、心が穏やかになる。
 この顔が毎日見れるなら、同棲も悪くないよな。

 でも、大学ではムリだから。

「灰野がひとり暮らしするなら通うよ」
「通い夫だ」

 いいね、と笑って、ん? と灰野がすぐに首を傾げた。

「呼び方」
「口慣れしてて」

 学校を卒業しても、先生を先生と呼ぶようなものだ。
 俺にとって灰野は灰野で、そう簡単には変えられない。……変えられないけど。

 はんぺんをはむっとして、

「結婚したら、呼べなくなるな」

 言ったら、きょとんっとされて。
 頬を紅潮させて「おもーい」と笑われた。

「そうかな?」
「そうだよ」

 そっか。