第1話 ネットカフェで優等生と狂った距離感で過ごす
「……精神的疲労を回復するのにはどうしたらいい?」
ネットカフェのフラットルーム。
2人用の部屋だから、やや広めな部屋だった。クッションを背中に置いて漫画を読んでいたら、俺とは違ってしっかり寝転がっている灰野が気怠げにそんな疑問を呟いた。
他の女子生徒より長めとはいえ、スカートで寝転がるのはよくないんじゃないのかと大胆に顕になった太ももに目がいってしまう。
「ね、聞いてる?」
「俺への質問だったの?」
「幽霊に話しかけてるとでも?」
「AI」
「チャッピー使ってないし」
なにチャッピーって。魚?
のっそりとベージュの瞳が横に動いて、俺を見る。
そもそも、俺に質問したといっよりは、ひとりごとに聞こえた。方向が定まっていない疑問ほど、受け取りに困るものもない。送り先不明の郵便のように。
「疲労回復って言われても、現状がそうじゃないの?」
「そうだけど……」
灰野の声が躓く。
「もっとこう、なんか。能動的というか、寝てれば回復するとかじゃなくって、あるでしょ? ヒーリング的ななにかが」
「ヒーリングソングでも聞けば?」
げしっと蹴られた。
「見えるぞ」
「勝手にどうぞ」
と、照れもなく言いつつ、スカートの裾は直している。女の子ではあるらしい。盛り上がりを見せるアイドル漫画に目で追いかけながら、頭では灰野の質問を反芻する。
「回復ね、美味しいもの食べるとか?」
「じゃあ奢って」
「たかるな自分で買え」
言ったら、灰野の垂れ目がむっと吊り上がった。
「そんなお金があるなら、カップル割なんて使ってない」
「なら諦めて」
「他には?」
諦めろよ。
伸ばした足を引っ込めて、膝を抱える。他って言われてもなー。
「抱きしめるとストレス発散になるって、どこかの漫画で言ってたな」
「……」
なんか黙られた。
ついでにスマホを下ろして、じとっとした半眼が俺を刺してくる。
「それは案に抱きしめたいって言ってるの?」
性格に反して大きな胸部を灰野は腕で持ち上げた。
「なわけない」
「なら他」
「キスでもいけるって」
「……わかってやってる?」
やってる。
ついには咎めるような目に変わっていた。セクハラ紛いだし、その目を向けられるのもわからないでもないけど、理不尽じゃなかろうかとも思う。
「そもそも答え求めてる?」
「いや別に」
しれっと言われてムカついたので、背中で潰していたクッションを持ち上げて、ひょいっと灰野の顔面に向けて投げる。下投げで、勢いなんかない。
ぽすっと顔面にあたって、ぽてんっと落ちる。
「戦線布告?」
「口火はそっちでは?」
ぺいっと割りかし勢いよくクッションが投げ返されて、顔面に直撃する。黒皮のクッションは固く、ちょっと鼻が痛い。また投げたら、今度は腕で守られた。
「ふへっ」
「にゃろう」
得意げにほくそ笑まれてこっちも火がついた。
投げて、投げ返されての応酬。
最初こそ白熱したが、次第に勢いがなくなり、やる気がなくなったようにクッションが俺たちの間に落ちる。
「疲れた」
「でしょうね」
へばー、と灰野はまたもとの体勢に戻っていく。
俺も何事もなかったように途中だった漫画を読み進める。そんなことを繰り返していると、入場時に決めていた時間が迫っていた。延長する気力もお金もないので、さっさと部屋を出る。
最初に会計は済んでいるので、帰りは改札のようになっている入口を抜けるだけだ。
「あっつ」
外は暗く、太陽の代わりに豆電球のような月が駅前を照らしていた。
「夏だもの」
「いやまだ春」
「桜は散った」
「季節の判断基準そこ?」
4月で夏じゃん、それ。
冬服なのもあるんだろうけど、陽も出てないのこの暑さはどうかと思う。温暖化もくるところまできたなというのを、肌を伝う汗で感じ取る。
「じゃ、またね」
「明日」
後ろ髪を引かれるなんてこともなく、片手を上げて別れを告げる灰野に、俺も小さく手を振り返す。向かう先は駅方面で同じなのだけど、ネットカフェの前でお別れするのが当たり前になっていた。
離れて、駅の人混みに消えるのを見送ってから、追いかけるようにゆっくり帰路に就く。
「あ、牛乳買わないと」
その前におつかいがあった。
◆ ◆ ◆
翌朝。
相変わらず早い夏の訪れで、教室に着く頃には薄っすら首筋に汗をかいていた。家を出るときには着ていたブレザーは、すでに腰で巻かれてファッションになっていた。
予鈴ギリギリだったから、教室にはほとんどクラスメイトがいた。ここから先は、遅刻とかどうかだろう。誰とも挨拶することもなく、窓際にある自分の席に向かう。
途中、目が合うのは朝日に照らされたベージュの瞳。
「おはよう、佐藤くん」
「……おはよう」
明るい朝の挨拶だ。
朝だというのに気怠さもない清々しい笑顔は眩しく、朗らかに見える。ニコニコとしたその優しげな微笑みに、俺はいまどんな顔をしているのだろうか。
「体調でも悪いの?」
「や」
咄嗟に言い返そうとして、もじりと口を閉じた。心配そうな表情はとても演技には見えず、健気にすら映る。罵倒にも似た悪態を喉元で押し留め、「眠いだけ」とどうにか無難な言葉に入れ替える。
「そう? でも、体調が悪くなったらいつでも言って。保健室まで送るから」
「灰野さんやさし~」
近くにいた女子が囃し立てるが、灰野は気にした素振りも見せない。灰野を囲った女子の輪に戻っていき、ニコニコと彼女たちの話に耳を傾ける。
その学校での日常的な光景を少し眺めてから、さっと折れ曲がる。自分の席に座って、窓から吹き込む風で揺れる黒髪を見つめる。
「同一人物には見えないよな」
ぼそりと呟いたひとりごとは、誰の耳にも届かず風に流されていった。