第5話 首筋の赤い痕は唇か

 ご褒美?
 微笑む灰野に疑問が挟まったが、荷物持ちのか、とすぐに察した。

「ご褒美が……添い寝?」
「嬉しいでしょ」

 確信的で、こちょこちょと顎下を撫でられる。

「嬉しくはない」
「あんだと?」

 むっとされた。
 でも、事実だから。灰野が横に寝ていたところであまり嬉しいとか、そういう感情は湧いてこない。でも、と手を伸ばして灰野の首に触れる。

「……安心する」
「それは嬉しいってことじゃないの?」
「タオル」
「律はばぶちゃんだったか」

 傍にいると安心する。
 誰にだってそういうものはある。使わなくてもスマホを持っていないと不安、みたいなものだ。いまだけは、それが灰野だというだけ。

「なら、いまだけは律のタオルになってあげる」
「……ボロボロ」
「んふふ……聞かなかったことにする」

 怒った笑い声で抱き寄せられる。
 布団みたいに沈んで弾む胸に顔を埋めて、鼻を動かす。甘くも爽やかな匂いに、やっぱり安心を覚えて、体中から力が抜けていく気がして……。

「おやすみ、律」

  ◆ ◆ ◆

 頭を抱えた。
 顔は血の気が引いて、真っ青だ。鏡を見なくたってわかる。ちょっと吐きそうなくらいには気持ち悪かった。

「なんで起こしてくれなかったの?」
寝てたからねふぇふぁはら

 ふわっと灰野が欠伸と伸びをする。
 胸が張って形が顕になるとか気にしていられない。だって、時間は22時近くで、高校生にとっては深夜といっても過言ではないのだから。というか、平然と6時間近く寝てたのか。寝すぎ。

「親に連絡……は、いいか」
「無関心?」
「じゃない、けど」

 どうせいないなら、無駄に心配させるだけだ。スマホに母親からメッセージは来てないからいい。

「灰野は?」

 問題は、なんの連絡もなく高校生の娘をこんな時間まで連れていること。
 どうなの? と見たら灰野はふっと得意げに笑う。その反応に、大丈夫なのか、と安心して、

「通知凄い。ストーカーみたい」
「心配してる家族を犯罪者呼ばわりするなよ」

 これは謝罪案件か。記者会見待ったなし。
 そう思ったが冗談と灰野はおかしそうに笑みを零す。

「今日は友達と出かけるって伝えてあるから平気」
「なら、いいんだけど」

 花火大会もあるし、と灰野は言い訳のように言う。それなら、多少遅くなっても許容範囲……か?

「……なんかあったら俺も謝るから」
「彼氏って紹介すれば一発だね」
「…………余計アウトじゃない?」

 日こそ跨いでないが、彼氏と夜遅くまで出かけてたって……想像が捗りそうだ。

「はぁ、まぁ。それで収まるなら好きにして」
「……」
「なに?」

 急に黙って。
 琥珀の瞳を満月のように丸くさせて、俺を映し込む。

「いいんだなー、と思って」
「俺に弊害なければ」

 どこでどう扱われようが別にどうでもいい。

「なるほど、じゃあ今度うち来て。紹介するから」
「弊害の意味知ってる?」
Heyguysヘイガイ!」
「終わってるよ」

 日本語力も英語力も。
 こういうのを義務教育の敗北というのか。いや、でもこれでも成績いいんだよな、灰野。委員長だし、生徒会長候補でもある。日本の将来が心配になるな。

「心配してなくても、冗談言ってる時間ないな」
「泊まってく?」
「青少年健全育成条例って知ってる?」
「もう不健全だと思うけどねー」

 未成年の男女がネカフェで一緒に寝ていたという事実を列挙すると、確かに不健全だけど。なんか、灰野がニヤニヤしているのが気になる。

「送ってく」
「送られる」

 そうしてくれ。

  ◆ ◆ ◆

 ネットカフェから灰野の家への道。
 夜はこれからと言わんばかりに赤ら顔で騒ぎ立てるスーツの集団を見送って、長い並木道を歩く。歩みを進めるごとに道を照らす明かりは減っていき、チカチカと瞬く街灯が足元を照らす。

 月は……見えないな。

「あれ、私の家」

 住宅街に深く入り込んだ場所にある一軒家。
 暗くて外観はよく見えないが、2階建ての立派な家だ。母屋とは別にガレージまであって、想像通りのとこに住んでいた。

「送迎ご苦労様」
「運賃は1,500円です」
「領収書の宛名は有限会社“律”で」
「せめて株式会社にして」

 他愛ないやり取りをして、灰野は絡めていた俺の腕を放す。

「じゃあね」
「また」

 別れ際はいつも通り軽い。
 未練がましいのもなんか違うし、これくらいの温度感がちょうどいい。

「律」

 来た道を戻ろうとしたら、灰野が呼び止めてきた。
 振り返ったら、家の門に寄りかかっていて、暗い中でもどうして、灰野がにへっと笑っているのがよく見えた。

「デート、楽しかったよ」
「……っ」

 不意打ちでなにも言えなくなって、手を上げて応えることしかできなかった。軽く『俺も』と返せばよかっただけなのに、上手くできなくて余計に恥ずかしくなる。

「それと」
「?」

 とんとん、と灰野が首を叩くジェスチャーをしている。
 なに? 首を狩るって意味?
 よくわからないから聞き返そうとしたが、「ばーい」と手を振って敷地内に消えていく。

「……なに?」

 同じように首を叩いても、灰野の言いたいことはわからない。

  ◇ ◇ ◇

「気づくかな」

 それとも、知らないまま洗い流すか。
 できれば気がついてほしいけど、そうでなくてもあとから突けばいいだけで、私にとってはどちらでもいい。どちらでも楽しい。

「でも、まずは楽しくないのを終わらせないと、ね」

 スマホの通知が沢山。
 母親からで、中身は……まぁ、お察し。

「面倒な女って思われるのは……ちょっと嫌だよね」

 家族のことに巻き込むのは特に。
 なにより、律が自然と起きるまでずっと寝顔を眺めていたのは私で、勝手にご褒美を貰ったのにその対価を押しつけるのはよろしくない。スマホの電源を切ったのも私だし。

「それに、言い訳くらいどうとでもなる」

 私は優等生だから。
 積み上げた信頼はこういうときにこそ使うもの。

  ◆ ◆ ◆

「…………なにこれ」

 首筋に赤い唇のようなあと
 洗面所の鏡に映るそれは、鏡の汚れとかではなく、ちゃんと俺の首についていた。灰野のニヤニヤ顔が思い出される。

「唇の……じゃないよな」

 首筋の痕に触れても、わかりはしない。

  ◆第4章_fin◆
  __To be continued.