第5話 金木犀の香りがしたら、私のことを思い出して

 ベッドは2個ある。
 ふたり部屋なのだから当たり前で、片方が空くことは普通ない。

「……あなたのベッドはお隣ですよ」
「抱き枕が喋った」
「人権」

 平然と潜り込んでくるな。

「俺んちならギリまだわかる。ベッドひとつしかないから。でも、旅行に来てまで一緒に寝るのはわからない。数学の未解決問題くらいわからない」
「解けたら100万ドル贈呈」
「ヒルベルトの23の問題」
「それ、一部解決されててもう23もないでしょ」

 マジか。

「なら、ヒルベルトのXの問題」
「天才物理学者と天才数学者の対決」
「それは容疑者X」
「みすたりー」

 俺にとっては灰野の頭が一番ミステリーなんだよ。
 もぞって動いて、灰野が人の腕を引っ張ってくる。ぽんぽんっと硬さを確認。頭を乗せて、うーんっと唸り始める。

「腕枕ってあんまりよくないよね」
「勝手に使われて理不尽レビュー」
「せっかく購入したのに、腕は枕としてはいまいちでした、残念です。☆1」
「使用用途が違うからな」

 腕は枕ではありません。

「律のベッドよりは広いし、ふたりで寝てもいいよね」
「うーん、道徳」
「私がルールブック」
「唯我独尊だー」

 俺もずいぶんと慣れたもので、この程度では動じなくなっている。言ったところで最強の『いまさらでしょ?』構文で反撃されるので、こうなることは決まっていたんだと思う。
 予感もあったしね、経験則から。

 でも、ちょっと予想外というか、予期して避けておくべき事態もあって。

「せめて、胸元直してくんない?」
「おぉう、せくしー?」
「せくしー」

 用意されていた浴衣を着ているのはいいんだが、着方が緩い。帯もしっかり締めてあげたのに、寝る頃にははだけ倒している。横向きで鏡餅みたいにむにってるし。

「なんで下着つけてないの」
「窮屈」
「子どもが靴下嫌がるみたいなこと言い出した」
「子どもだもーん」

 だもんって。
 かわい子ぶって、本当にかわいいんだからズルい。こうして絆されて、なんでもかんでも許していたら教育に悪いんじゃなかろうか。

「もっと厳しくするべき……?」
「やめて、教育ママはうちので十分だから」
「下着はつけて寝るザマス」
「……その貧困なイメージからどうにかしたら?」

 ほっといて。

「寝ないの?」
「律は?」
「眠いけど、寝れない」

 頭は重いし、瞼も落ちる。
 でも、寝れないときがある。それは今回もで、寝ようと意識するほど遠ざかっていくような気がする。

 両腕を天井に向けて灰野がぐっと伸ばす。

「明日の朝ご飯何時だっけ?」
「7時30分」
「もっと遅くてもよかったかも」
「朝一フロントに連絡して変えてもらう?」
「へーき」

 ぽふん、と脱力して掛け布団の上から俺の胸を叩く。

「律が起こしてくれるから」
「決定事項なんかい」
「起こしてくれないの?」
「起こすけど」

 だよねー、とゆるっと笑みを浮かべてすり寄ってくる。
 温泉の匂いに混じって、金木犀の香りがする。吸い寄せられるように、灰野の首筋に顔を埋める。

「律は匂いフェチ?」
「……違う」
 たぶん。ちょっと自信ない。

「でも、吸ってるよね?」
「違うけど」

 鼻を動かす。

「いい匂いで落ち着くから」

 安心する。
 それがどうしてかはわからないけど、羞恥心という壁を取っ払ってでも、嗅ぎたいときがある。

「どんな匂い?」
「金木犀みたいな清涼感」
「……どんな匂い?」
「木」
「き」
「木」

 わかってなさそう。
 手の甲を嗅いでるけど、小首を傾げている。自分の匂いはわかりにくいからな。

「律はー」

 逆に灰野が首筋に顔を埋めてくる。

「すーっ……甘い香り」
「灰野の血の匂いだろ」
「血潮は砂糖」

 病院行け。

「でも、ミルクっぽい甘い香りで……」
「ひぅっ」

 ぺろっと舐めてきた。

「美味しそう」
「俺を食事かなにかと思ってない?」

 ときどき噛んでくるし。

「食べちゃうぞー」
「ぎゃー」

 と、やっぱり首筋をはみはみされる。
 ときどきやられるけど、歯がうずいたりするのか。猫もやるみたいだし、灰野の生態はやっぱり猫に近いのではなかろうか。鮫ではなく。

「でも、金木犀ね」

 口を離すと、唾液の橋がかかってちょっとえっちぃ。

「香水とか売ってるかな?」
「金木犀の香りに金木犀を重ねるの?」

 掛け合わせるともっといい匂いになるとか?

「違くて、律に」
「俺に?」
「そう、しゅーっと」

 見えない香水を灰野は俺に振りかける。

「いい匂いだけど、別に俺からしてほしくはないんだけど?」
「つけよう」
「なんで?」

 わからなくて。
 重ねて尋ねると、灰野は微かに頬を紅潮させて笑みを深める。

「――金木犀の香りがしたら、いつでも私のことを思い出すでしょ?」

 ……なんでこう灰野は恥ずかしげもなく、さらっと口説き文句みたいなことを言ってくるのか。
 余計に眠れそうになくて、灰野の首筋によりぎゅぅっと鼻先を押しつける。

「灰野が男じゃなくてよかったよ」
「おっぱいが大きいから?」

 違う。