第3話 ネカフェに行くと連絡しただけで、会いたくなったとは言ってない

 遅めの起床。

「朝食は……シリアルでいいか」

 もう9時だったけど、今日は学校が休み。テスト期間中だけど、焦って詰め込むということをするつもりもないので、どうにも気が抜けている。
 湿気の籠る廊下を抜けて、リビングに辿り着いてぎょっとする。人が転がってたから。

「か、母さん……?」
「うぼげぇ」

 いまにも吐きそうな返事だった。
 潰れた蛙にしか見えないが、一応、たぶん、血の繋がった母親……のはずだ。朝から打ち上げられた魚みたいになっている人を母親と認めたくないが、しょうがない。

「み、みずを……くだしゃい」
「頭からかけてあげる」

 そうすりゃ目も覚めるだろ。

  ◆ ◆ ◆

「あー……無理、しんどい吐きたい」
「トイレと結婚してくれ」
「夫になる人『ト・イレ』で受理されるかな?」

 便器持った女が窓口に来たら、俺なら先に警察を呼ぶ。

「はい、味噌汁と水」
「うぅっ、りっくん優しい……結婚しよう」
「便器持ってくるわ」
「やさしいぃ」

 もうなんでもいいんだな。
 久しぶりに見た母親の顔が土気色で、トイレでキラキラさせてるとか見世物としても底辺すぎる。ずずっと味噌汁を幸せそうに飲んでいる母親に濡れタオルを渡す。

「あぁっ……気持ちいい」
「居酒屋のおっさん」

 ソファーにごろんっと倒れて、ごしごし顔を拭いている。いつもなら化粧が落ちるのを気にしてるけど、このあとは流石に仕事はないということか。

「これから朝食作るつもりだったんだけど、食べたいものある?」
「りっくんの愛」
「ぶぶ漬け了解」

 あーん、と酒浸り女の鳴き声が聞こえるが無視してリビングに向かう。冷蔵庫を開いて、鮭あるし、これでいいか。

「着替え用意するから、スーツがシワになる前に着替えてきたら」
「スーツのシワは心の乱れ」

 社訓みたいなうわ言を言い始めた。休み全然ないし、母親の職場は大丈夫なのか。ブラックなのは間違いないが。

  ◆ ◆ ◆

 エアコンをけて、適度な水分補給をさせる。
 冷房でお腹を冷やすのもよくないから、ブランケットをかけておく。その間にスーツをファブして、出勤用のシャツにアイロンをかけておく。

「りっくんと結婚する人は幸せだねぇ」
「……結婚」

 横目で見ると、だらりと腕を下げてズーンと重たい空気を背負い出した。

「うん……そうね。お母さんが言っても説得力ないね」
「シャツ置いてとく」
「ありがとぉっ」

 えぐえぐ泣き出して面倒なので、放っておいて掃除に移行する。
 久方ぶりの親子水入らずというには、やや汚い場面が多くて辟易するが、母さんが大変なのは知っているから休んでいてほしいとは思う。ただ、それが叶うかどうかは別。

「また仕事?」
「休みの日が一番忙しいんだよぉ」

 今日一日は休みなのかと思っていたのに、母さんは夕方にはスーツに着替え直して限界で靴を履き始めた。

「休めないの?」
「うーん、休める」

 なら休め。
 そう思うが、「けどぉ……」と笑う。

「楽しいから」
「ワーカーホリックめ」

 仕事大好きすぎて離婚した女の言うことは説得力が違う。母子家庭で養われている。だから、あんまり否定はしたくないんだけど、

「倒れたら病院突っ込む」
「自宅療養でりっくんによしよしお世話されたーい」

 抱き着いてくる。
 酒の匂いは……ないな。頭から消臭剤をかけなくていいようだ。

「ん?」

 なんか疑問の声を上げている。暑苦しいからさっさと行ってほしいんだが。人の肩口ですんすん鼻を動かすのが鬱陶しくて、邪魔と引き剥がす。

「なに?」
「いや匂いが……」

 匂い?
 んー? と顎に指を当てて悩む素振りを見せる母親を訝しむが、母さんも疑問がぼんやりしていて理解に至っていないらしい。

「なんだろう。清涼感……でも、甘いような…………金木犀?」
「………………」

 そういえば、昨日も抱き着いてきたな、あの裏表激しい委員長様は。
 マーキングとか言ってたけど、匂いってそんな簡単に移るのか? 母親も嫌だけど、クラスメイトに指摘されたらもっと嫌だ。面倒になる。

 嗅いで確かめたいが、母親の前でそんな露骨に怪しい真似できるわけがない。いまのところは、母親の鼻が犬並によかったと思っておこう。

「急いでるんじゃないの」
「はっ、バス!」

 腕時計を見て、慌ててドアを開けていく。

「行ってきます!」
「いってらっしゃい」

 手を振って、見送る。
 ドアの向こう。アパートの廊下を走っていく音が遠ざかっていくのを確かめて、肩に鼻を近づける。

「……わからん」

 でも、消臭スプレーはかけておこう。

  ◆ ◆ ◆

 今日は母親が好きな海鮮カレーだったんだけど、ひとりで食べるには多くなってしまった。

「……タッパーでいいか」

 今日はいると思ってたから、やけに家の中が静かに感じる。
 お腹もあんまり空いてない。
 このまま寝てもいいか。そう思ってベッドで布団を被ったが、まだ19時台で外は微かにだが明るさが残っている。眠れるわけもなかった。

 動画を見て、テレビを見て、小説を読んでみて。
 静けさがうるさくて、集中できずに放り投げる。

外出そとでるか」

 梅雨明けはまだだが、幸い雨は降ってない。このあとも曇りの予報で、傘を持たなくてよさそうだ。コンビニ……は、気分じゃない。買う物ないし、高いし。

「ネカフェでいっか」

 割増料金には目を瞑る。
 持ち物はスマホくらいで、そのまま外に出ようとして、あー。

「……一応、連絡しておくか」

 来ないとは思う。
 でも、知らせておかないとあとでうるさいから。ただ……それだけ。

  ◆ ◆ ◆

「私に会いたくなっちゃった?」

 からかいようなニヤニヤとした笑みで灰野が入ってきた。
 やっぱり連絡するんじゃなかった。後悔が特急でやってくる。