第1話 恋人の好みの味を口移しで知る
灰野と恋人になった。
でも、だからといって特別なにかが変わるわけじゃない。
「律、ココアー」
「へいへい」
白い紙片で呼び出されて、怠惰な灰野がこっちも見ずに要求してくる。付き合ったのに変わらない態度に安心すればいいのか、もう少しなんかこう……あるだろ? とモヤればいいのか。
わからないままドリンクバーまで行って、戻ってくる。
「お待たせしましたお嬢様」
「せんきゅー」
ずりずり壁を這うようにして灰野が起き上がる。
その姿にはぁ、とため息が出た。
「これが最近、学校の生徒から慕われている美人生徒会長の姿とはな」
「美人でしょ?」
「汚部屋じゃない?」
「部屋は綺麗」
「心は汚い」
げしっと素足が飛んできた。
空調は効いているけど、もう12月だ。寒くないのかね。というか、さっきまでタイツを履いてたはずなんだが、どこいった。
探したら、灰野の足元でくるくると丸まっていた。
だらしないなー。
「家じゃないんだから、ちゃんとしなさいよ」
「律は素足の方が好きだから」
「性癖を決めつけないで」
どう?
と、スカートをたくし上げてくる。見慣れてしまったパンツこそ見えないが、引き締まった白い太ももがすべすべしている。胸は大きいのに、足は細いってなんかのバグかな。
「タイツから薄っすら透ける肌の方が好き」
「特殊性癖だったか」
「いや、普通」
「日本始まってたんだ」
終わってんだよ。
タイツを伸ばして畳む。どうせ外に出るときはまた履くだろうから、小さく折りたたんで灰野の鞄の近くに置いておく。それを壁を背に座っていた灰野がじーっと見ていた。
「クラスの男子にタイツを畳まれたのは初めて」
「俺も初めてだよ」
母親以外のタイツを畳むのは。
「女子のタイツ畳みたい人っているのかな?」
「いてほしくない」
いそうだけど。
「律は私のタイツに触れて嬉しいから」
「布触ってなにが嬉しいんだよ」
「私に触りたい?」
挑発的だったので、足の裏をこしょってすると、ひゃわってくすぐったそうな顔をして逃げていった。
「くっ、今回は負けを認めよう」
「ココア美味しい?」
「おいしー」
ずずっと飲んでいる。幸せそうでなにより。
俺も自分のカップを取って……あまっ。
灰野はよくこんな激甘飲めるな。わかっていたけど、ドロってしていて、砂糖をお湯で溶かしたんじゃないかってくらい甘々だ。喉にべっとり張りつくのがわかる。
漫画に集中すれば多少気も紛れるか。
万能猫が家事をするお話。うーん、俺もこれくらい家事ができるようになれるといいが……喉痛い。甘いものを摂ると集中できるっていうけど、限度があるだろ。
うぇーっとしていると、灰野が四つん這いで顔を近づけてきた。
「近いって」
前髪が鼻を掠めて痒い。
不意打ちのゼロ距離から頭を下げると、灰野は不思議そうにこてっと顔を小さく傾けた。
「さっきからコーヒー飲むたびに変な顔してる」
「どんな?」
「ロシアンたこ焼きのはずれを食べたときの顔」
「酷い顔ってのだけは伝わってきた」
絶対そんな顔してないけど。
せめて苦虫を噛み潰したような顔だろ。この場合、甘虫だけど。……甘虫ってなに?
「いつもは苦いだけの苦渋汁を飲んでも眉一つ動かさないのに」
「コーヒーな?」
「被虐の黒汁」
漫画のタイトルでありそう。
甘いのが好きな灰野からすると、その真逆を行くコーヒーを飲む人は本当に同じ人間か疑わしいんだろう。俺からすると、こんな劇物飲んでる灰野の方が人かどうか疑わしいが。
「蜂蜜大好きな熊かな」
「ハァーイ、ボクプ◯さん!」
「それは鼠」
ハハッて高い裏声で笑わないで。消される。
「あれ? 茶色い」
いまさら俺が飲んでるのがいつものブラックじゃないと気づいたらしい。カップを掴んでそのまま持っていくのかと思ったら、俺の手ごと包みこんで、こくっと喉を鳴らした。
「……私のだ」
「特許は取ってないだろ」
「取ろう」
門前払いされる。されて。
こんな甘いだけのココアと呼べるかも怪しい飲み物を他の人が飲んでるとは思わないけど。カップをテーブルに置きたいが、灰野が手を放してくれない。
ベージュの瞳が瞬いて、俺を映す。
「なんで?」
「なんでって……なにが?」
さっと顔を逸らしてすっとぼける。
でも、カップから手を放した灰野が、今度は俺の顔をその両手で包みこんでくる。くいっと顔を戻されて、瞳とぶつかる。
「なんで私のココアを飲んでるの?」
「たまたま」
「あんな劇物人の飲み物じゃないだろって言ってたのに?」
言ったか? 言ったな。
いまでもそう思ってるし、なんならコーヒーを混ぜたい。でも、今日は灰野印のココアを飲んでみようと思って、どうしてか詰められている。どんな因果関係。
「じー」
「…………」
「じじじー」
口で言うの鬱陶しいな。
擬態語通りじっと見てくる灰野。どこかの猿のように口を手で塞いでなにも言わずにできたらよかったけど、今日をやり過ごしても諦めないんだろうなー。
そう思うと早々に諦めた方がいいんだろうと肩を落として、なけなしの抵抗で目を閉じる。
「…………その」
「うん」
「灰野の好みを知っておこうかなと」
「それは……」
なにかを察したみたいに灰野の声が途切れる。
「……どうして?」
「いま察したよな?」
「灰野ちゃんわかんにゃい」
このイラッとするぶりっ子をかわいいと思ってしまう俺は、たぶんもう終わってる。負けてて、瞼の向こう側から近づいてくる灰野の吐息を感じたら、天岩戸も開くしかない。
「……好みを、知っておこうかな、と」
「誰の?」
悪魔だ。
「………………彼女の」
顔熱い。
瞼の向こうに体温を感じて、目も開けられない。
どんな顔をしているのか。お互いの表情をどちらも知りたくなくて、見ざる言わざる聞かざるしていると、唇に柔らかい感触がむにっと押しつけられた。
口の中に、甘いドロっとした液体が送り込まれて。
「私の好み……わかった?」
「……甘い」
思わず瞼を開けたら、灰野の唇が濡れていて。
顔を近づけても。
唇をくっつけても。
恋人になる前からしていたことだ。
だから、別になにも変わらない。……変わってないから。