第5話 狂った距離感でやけどした

 お互い学生でお金がないけど、ネットカフェは利用したい。
 だから、どうかな?
 そう控えめに尋ねてくる灰野の提案に、躊躇ためらいつつも応じたのが2ヶ月くらい前のことだ。

「ココア持ってきて」
「…………」

 そこからどうして、誰にでも優しい真面目な優等生が、フラットルームのクッションにぺたーっとだらけて、人をパシリ扱いするようになるのか。もはや変貌どころか詐欺だ。

「漫画読んでんだけど?」
「読みながら行ける」
「行儀悪いザマス」
「もとから悪いからへーき」
「素行不良みたいに言うなや」

 蹴っ飛ばしてやろうか。
 そんな気持ちになって、ついっと足を伸ばしたら、蚊でも叩くみたいに素早い動きで手を叩き落としてきた。瞬時に引っ込めなければやられていた。

「ちっ」
「ちょいちょい優等生、顔が怖いよ」

 不良漫画に出てくるスケバンくらい厳しい顔だ。

「美少女が台無しって言った?」
「自己評価たけー」

 煽られたから煽り返したんだが、灰野の素足が脇腹に入った。加減はされてる。けど、足癖悪いなこいつ。ぺしっと軽く叩いてやると、「痛い」って、まるで痛そうにない声で非難してきた。

「DVだ」
「愛はないんだ」
「うえおはあるの?」
「女将さん、飲み物取ってくるわ」

 脳直で話しているせいで、くだらないことしか喋ってない。生産性なんて欠片もなく、やはり糖分不足だ。部屋を出ると、「あ、り――」という声が追いかけてきた。

「なに……って、締まった」

 振り返ったと途端、ガチャリと無機質なオートロックの音がした。開けて聞き直す? それも面倒くさい。

「どうせくだらないことだろ」

 糖分足りてないから。
 帰って戻ってたかだか数分。悩んでいる間に行ってきた方が早い。

「次は……これかな」

 漫画はさくさく読み終わる。
 1回ネカフェに来ると1シリーズ読み終えるのはざらで、次の作品を探す。スタッフのおすすめから女バスの漫画を抜く。やっぱりコスパいいよなー。

 ドリンクバーでコーヒー(ブラック)とココア(激甘)を淹れて、トレーに載せて持って帰り……、かえ……れない。

「…………カードキー忘れた」

 オートロックの締め出しとか、ホテルくらいだと思っていたが、今日日ネットカフェでも起きるらしい。というか、起きてて、そんな非情な現実にぶつかっている。

「さっき灰野が呼んでたのはこれかよ」

 なら、もっと焦った声を出せ。
 中に人がいるから本当の意味で締め出されてはいないが、やらかしたという感覚があってなんか嫌だ。

「開けてー」
『合言葉は?』

 ねーよ、なんだそれ。
 こっちはカードキーもなければ、両手も塞がってる。そんなお手上げの状態で、頭まで働けというのかこの似非優等生は。

「あー……開けゴマ」
『ユーモアに欠ける。老人会、マイナス100点』

 なんで合言葉が採点式なんだよ。
 老人会って、別にいいだろ扉を開けるといえばだろうが。言いたい文句は沢山あるが、飲み物を持ったトレーを持ち続けるのは普通に疲れる。
 入ったら虐めよう。

『攻撃的な気配を感じたから開けませーん』
「ふにゃぐっ」

 両手が埋まっててよかった。そうでなかったら、全力で扉を叩いて近隣とスタッフに迷惑をかけてるところだ。
 くそぉ。
 だいたいなんだ、合言葉って。たぶん、面白いこと言えってことなんだろうが、アイドルに面白いことしろって無茶振りするクソ司会みたいなことしやがる。

 芸人じゃない俺は、すぐに面白いネタなんて思いつかない。アルミ缶の上にある蜜柑とかが限界だ。言ったら、絶対冷笑されるから言わないけど。でも、俺は好き。
 しょうがない、適当に褒めときゃいいだろ。

「灰野はちょー美少女だなー」
『愛がない』
ないつったろうえお
『あいがなーい』

 ネットカフェではだらけているだけの癖に、どうしてこういうときばかりハキハキしているんだ。さすがにこれ以上思いつかないんだけど。そう思っていたら、ドアが少しだけ開いた。

 ひょこっと白い手が出て、くいくいっと手招きする。

「ココアだけちょうだい」
「かけてやろうか?」
「あつーい」

 かけてもないのに、棒読みで熱いフリをする。僅かに開いたドアに手を差し込んで大きく開けると、わー、と全然びっくりした様子もなく声を上げて灰野がへたり込んだ。

「……疲れた」
「ならやるなよ」

 テーブルにトレーと漫画を置いて、いそいそとクッションを抱く灰野を見る。うーん。と、少し悩んで、やっぱりやっておくことにする。
 空いた両手でするりと灰野の両頬を包む。微かにベージュの目を見開いて、でも、動揺を隠すようにその顔は平静だった。

「なに急に――」
「愛してるよ」

 至近距離。満面の微笑みで愛を伝えた。
 反応は劇的で。

「ひゃぅ」

 微かどころか大きくその瞳を見開いて、ボッと熱っせられたように灰野の頬が赤く染まった。それを見て俺はしてやったりな気分になる。

「はっはっは、俺の勝ちー」

 からかわれて意趣返しができた満足だ。
 パッと手を放して、至福の一杯に手を伸ばす。

「あー、美酒うめー」
「……っ、勝負してないから」
「赤い顔でよく言う」
「赤くないっ」

 もちろんそんなことはなく、長いブラウンの髪から少しだけ見える耳たぶもやや赤みを帯びていた。

「まぁ、そういうことでいいよ」

 その顔が見れただけで俺は満足だ。
 マグカップをテーブルに戻し、持ってきた漫画を読む。新しい作品を読むのに最適な高揚感だ。1ページを開いて、視線を落とす。ポフンポフンッとなにやらクッションを叩く愉快な音が聞こえるが、いいBGMだ。笑える。

 そんな風に勝利に酔っていたわけだけど、灰野がそのまま終わるはずもなく、

「…………なにしてんの?」
「クッションが喋るな」

 人の膝の上を横断するように、体を乗っけてきた。
 子ども染みた報復。でも、灰野の体は幼いとは言い難く、服の上からでもわかるくらい主張している胸が俺の太ももでむにっと潰れている。

 ゴムボール……というには柔らかい。でも、餅というには弾力がある。

 どう呼ぶべきか。
 なんて……平静を装ってみるけど、これはちょっと無理だった。

「顔赤いけど?」
「赤くないですからー」

 これはお互いやけどしたってとこかな。