第1話 処女でーす
「あれ、落としちゃったんだ」
金曜日。ネカフェの日。
先に部屋に入って待っていた灰野が、俺を見て……というか、俺の首筋を見てそんな声を零す。残念そうで、同時に面白がった声にひくっと頬が引き攣ったのがわかった。
「……人が寝てるときになにイタズラしてくれてんだよ」
「なんかエッチ」
「そういうんじゃ……」
ない、と言いかけて、あれもあれで十分エッチだったのでは? と思ってしまい、言葉が出てこなかった。
「ないの?」
こっちの内心なんてお見通しで、灰野がからかい交じりの笑みを浮かべている。普段は寝ているだけなのに、どうして人をイジるときだけ元気なんだ、こいつは。
鞄を下ろして、ぷいっと顔を背ける。
「寝てろ」
「イタズラする気だ、エッチな」
「ぐへへ触っちゃうぞー」
「きゃー」
口だけで指先ひとつ動かさなかったのに、灰野は身を丸めてころんっとダルマみたいに転がった。楽しそうなのが謎。今日は白のレースでリボンがついたフリフリですね。……どっかで聞いたような柄だな。
「今日の漫画はなーにー?」
「百合」
「花の?」
「Gasoline」
「女の子は女の子同士で恋愛すべきだと思ってるの?」
わかってるじゃん。
「女の子同士の恋愛が好きなの?」
こっちに頭を向けて、灰野が仰向けに転がる。前髪が落ちて、おでこが広がっている。
あなたも好きねー。みたいな顔。そういう意図で読んでない。
「店員のおすすめにあっただけ」
「女の子同士だとデキなくない?」
「キスくらいできる」
「でも、凸と凹が」
「委員長?」
なに言おうとしてんの?
「わたしわかんなーい(うるうる)」
「はいはい初心初心」
「処女でーす」
「ぶっ」
急なぶっこみに吹き出してしまった。
冗談にしても笑えない。仰向けのまま上目で、嫌らしい笑み。ちょっと視線を灰野の下に向けて戻したら、これでもかって目端口端が吊り上がっていた。
「意識しちゃった?」
「下品」
漫画に目を落とす。
……なんか普通に濡れ場に入って閉じる。世の規制は厳しくなっていくばかりなのに、最近の漫画は逆向するように表現がゆるゆるになっているのはなんでなんだ。反抗期の子どもか。
「読まないの?」
「別の持ってくる」
「私が読むー」
蛇みたいににょろっと頭から動いて、下から俺の腕の中に入り込んでくる。人間てそんな動きできたの? 驚いている間に座り心地のいい体勢になっていて、なんか抱きしめるみたいになっていた。
「開いて」
「勝手に読んでろよ」
「言質を取った」
俺の手に手を重ねて、漫画を開いてくる。
「俺の手、経由する必要ないよね?」
「ある」
顎の下で、見上げてきた灰野が笑う。
「私が楽しい」
「……さようですか」
「さようですとも」
なら、いいのかなと思うのは、少し飼いならされすぎな気もする。
後ろからベージュの髪を払い退けて、首筋に鼻先を埋める。
「律、それ好きなの?」
「……わかんない」
わかんないが、なんとなくやりたくなる。
普通なら拒絶されてもおかしくないけど、灰野は平然としている。だから、いいのかなって。許されている気がして、鼻を動かす。金木犀の香りが……最近は好きだった。
「私も――」
と、胸の中で、灰野が鼻先を寄せて来ようとして、ぶーっとなにかが震えた。それはスマホの着信で、緩んでいた灰野が顔が一瞬でしかめっ面になるくらいには、現実に引き戻すトリガーだった。
「ちっ……電源、消し忘れた」
「投げキッス感謝」
灰野が腕の中から這うように出ていく。丸っこいお尻がフリフリして、無防備なその姿を見ていると母親の気持ちになる。お母さん心配。
「うげっ」
「女の子?」
「さすが知らなかったすごいセンスいいそうなんだー」
女の子だけど。
偏見に満ちた女子像を持っている灰野は、なにが入るの? と疑問に思うくらいに小さいショルダーバッグから取り出したスマホを見て固まっていた。
「で、なに? 家族旅行でも中止になった?」
「それなら祝杯だから」
「……家族仲悪いの?」
「ちょーいいよ」
ならいいけど……矛盾してない?
見てはいけない世界の裏側を知った気分になる。
「クラスの女子からカラオケに誘われた」
「それはそういう反応になるなー」
「でしょ?」
うんうん。
…………んー。
「いや、ならなくない?」
友達じゃないの?
◇ ◇ ◇
「――Everybody, let’s go!」
マイクを握ったクラスの女子がソファの上に立ってご機嫌だ。
他の2人もノリノリで、「Yeah!」とノリ散らかしている。それを横目で見て、
「イエーイ!」
私はタンバリンをシャンシャンしていた。
心との温度差で風邪を引きそう。