第5話 婚姻届は冗談だったんだけど、書いてくれるならありがたく頂戴します

 ――お疲れ様でした。
 バイトの最終日。全日合わせて10日もないとはいえ、仕事したなー、という気分になっていた。

「給料はまだ」

 上がって、スーパー内のドーナツ屋でコーヒーを飲む。
 クリスマスまでには振り込まれると取りまとめていた社員さんが言っていたが、さすがに当日というわけでもないらしい。口座の額は変わらず、6桁にも届かない。

「間に合うなら、まぁ」

 使い道は決まっている。
 プレゼント、それにデート代。
 はむっと季節限定のクリスマスっぽいチョコドーナツを食べながら、あと5日に迫った聖夜を想う。想って……初めてのバイト代だしなー、と少しだけ孝行しておこうとも思う。

  ◆ ◆ ◆

「これにサインして」

 あ、そういえば、と。
 まるで買い忘れを思い出したように灰野が紙を出してきた。数秒前までうだうだ寝ていたのに、ぴょんっと跳ねるように正座をして、すすっとフラットシートの上を滑らせてきた。

「連帯保証人なら断るけど」
「最近、多いよねー、学生の借金」
「後払いとか、審査緩いから」
「……する?」
「キスみたいに勧めないで」

 俺に借金させてどうしたいのか。
 訊いたら、飼うとか言い出しそうなので、借金という名の首輪をつけられる前に渡された1枚ペラを拾う。なにかの書類っぽいんだけど……。

「婚姻届?」
「どぞー」

 両手で、なんか高そうな万年筆を渡してくる。
 いや、いや。

「保証人より重いくない?」
「それは人によって感じ方が違うから」
「額によっては借金の方が重い場合もあるか」
「ねー?」

 同意はしない。
 学生のうちに、それも付き合って1ヶ月そこらの相手に言うことではない。どちらであっても。

 お願いの割に子どもみたいな無邪気な顔をしている灰野。
 なんで万年筆?
 疑問に思いつつ、まぁ書けというなら、と万年筆を握る。

「あ、ほんとに書いてくれるんだ」
「……書かなくていいなら書かないけど」

 どうせまだ結婚はできないし。

「嘘嘘書いて書いて」

 できれば婚姻届が嘘や冗談であってほしかったんだけど。
 テーブルに向かう俺の背中に回って、肩を掴んでくる。揉むように手を動かしたあと、肩に顎を載せて手元を覗いてきた。

「よく貰えたな、婚姻届」
「普通にお役所で貰えるよ」

 ただの書類だし、そんなものか。

「結婚できない歳でも?」
「私はできる」
「いや、できないから」
「え」

 灰野の頬が、俺の頬を擦る。
 近すぎて表情なんて窺えないけど、嘘だよね? と思っているのは間違いないだろう。頭いいのに、時折常識が抜けて落ちている。

「法改正されて男女ともに18歳になったから」
「おのれ日本」

 改正前でも、俺が結婚できない歳なんだからなにも変わらない。

「名前だけでいい?」
「住所と本籍もお願い」
「……詐欺で、個人情報盗られてるみたい」

 ペン先が、紙の上数ミリで止まる。

「ふふふ、これで律の居場所は24時間365日把握できるね」
「なんだ。いまと変わんないな」
「ほんとだー」

 ほんとだではないが。
 位置情報アプリをアンインストールしたくなる。したらしたでうるさそうだからやらないけど。

 後ろからべったりくっついてきて、俺の体を前後に揺らす。
 揺れる、潰れる。

「……当たってる」
「当ててんだよー」
「離れて」
「律って、本当に意識するようになったよね」

 これくらいいいでしょ? と、耳元で囁かないでほしい。
 だって、しょうがない。

「好きってそういうことだろ」
「……」

 なんで黙る。
 背中を揺すって灰野を引き剥がす。振り向いたら、小さく口を開けていて、まじまじと俺を見つめてくる。

「なんだよ」
「律ってさー」

 やめろって言ったのに、またのしかかってくるし。

「結構、あれだよね」
「どれ」
「ロマンチスト」
「……そんなんじゃ」

 ない。……ない。

「好きになったら、そういうの……考えるのは普通だろ」
「前提ありきなのがかわいいよねー」
「うっさい」
「あでっ」

 恥ずかしくなってムカついたので、灰野のおでこに婚姻届をぺしっと貼り付ける。

「いたーい」
「知らん」

 ブランケットを頭に被る。

「ほんと灰野はデリカシーがない」
「拗ねちゃった」
「拗ねてませーん」
「ごめんてー」

 灰野がブランケットを引っ張ってくるので、端をぎゅっと握って対抗する。
 ぐいってして、ぐいぐいってされて。
 ひとしきり、引っ張り合いに興じて、汗をかく。

「あっつい」
「冬なのにー」
「誰のせい」
「私ってことにしてあげるよ」
「何様ー」
「わたくしSummer」

 冬だっての。
 ブランケットが奪われて、ぼけっと電灯を眺めていたら影がかかった。

「クリスマスさー」
「嫌ー」

 影の中で、光を帯びた琥珀の星が笑う。

「律の家に泊まるからー」

 嫌だって言った。

  ◆第3章_fin◆
  __To be continued.