第2部 第5章

第1話 どんなことでもいたします、だから……

 さて、どうしよう。
 やってみるわー、とイリスに言ってみたところで、実のところやれることはあまりなかった。というか、なかった。

 毎日アイシアにお世話をされているだけで、アイシアはそれ以上のことをしてこない。スノーティア公爵は俺が傍にいることで心の安定を保てている、みたいなことを言っていたけど、本当にそうか? という疑念もある。
 だからといって、アイシアに直接訊いてヤバめの反応が返ってきても困りものだ。『なら、死にましょう――共に』とか、ガチで湖の底に沈められたら、新しい伝説になってしまいそうだ。

 不幸中の幸いなのか、こうして捕まっている以上、することもなく、考える時間だけはあった。なので、いい方法が思いつくまでこの怠惰な生活を満喫――ではなく、甘んじて受け入れよう。……そう、思っていたのだが、

「――なにかしてほしいことはありませんか?」

 圧が強い。
 美形とはよくいったもので、その芸術品のように整った顔立ちをアイシアはぐいぐいっと寄せてくる。鼻の頭がぶつかるどころか、ちょっと顎を上げるだけで唇が事故りそう。

 本当に透き通っているんじゃないかって思わされる瞳の氷に視界が満たされ、お、おぅ、とたじろいで背中からベッドに倒れてしまいそうだ。

「な、なに?」
「なにかしてほしいことはありませんか?」
「や、十分してもらってるし」
「なんでもいいんです。どんな高級な料理でも用意いたします、高価な宝石でも、金銀財宝をお望みならすぐにお持ちいたします。それとも、権力でしょうか? 公爵家としての権限を奮っていただいても構いません。なにか……私に望むことはありませんか?」
「落ち着いて?」

 アイシアの香りで肺が満ちてしまいそうだ。
 迫る顔をぐいーっと押しのけて、吸ってしまったそれを吐き出す。で、なにこれ。

 朝、起きてからというものこの調子だった。
 とにかく俺になにかしてほしいことはないかと隙あらば尋ねてくる。いままで以上に俺のお世話をしようとして、メイドのご主人様どころか、もはや赤子扱い。下の世話までされたら、さしもの俺も尊厳が破壊されて泣く。それこそ赤子のように。

「なに……どうした?」

 ベッドの端に座っていた体勢から、ずりずり下がって逃げつつ尋ねてみる。開いた距離分、なんだかアイシアの眉尻が下がった気がしたが、その辺りを気にしていると『じゃあ、いいです』と引っ込めてしまいそうなので見なかったことにする。

「私はただ……ルシアン様に」
「俺に?」

 と、あやすように訊いたが、立ったまま俯いてスカートを両手で握り込んだ。もとから白いアイシアの両手の甲がより白く、血の気が引いていく。
 ほんとになんなんだろう……と惚けてみるが、実のところもしかしたら、という予想はあった。

 起きてたかな、昨日。
 夜、イリスが来て、帰っていった。起きなかったし、深く寝入っているようだったから大丈夫かな、と安易に考えていたけど、どうやらそうじゃなかった、というのがこの反応っぽい。

 俺がどこかに行ってしまう。そうした懸念から、こうして行動に出ている……のかもしれない。確証はないし、本当のところはわからないが、考えつく理由なんてそんなところしかなかった。

 となると……どうしたらいいんだ?
 聞かれていたからといって、俺からなにをすればいいかなんてわからない。話を聞いて、どうにかなるのだろうか。そうやって頭を悩ましているうちに、先に動いたのはアイシアだった。

 またぞろ迫ってくるのかと思ったけど、そうではないようで、ベッドの上に乗っかって隣にちょこんっと座ってくる。スカートの上で迷うように手を行ったり来たりさせて、躊躇いつつも掴んだのは俺の服の裾だった。

「…………っ」

 迷子のようにぎゅっと掴んで、放そうとしない。その手は震えていて、切々たる思いがその震えから伝わってくるようだった。
 傍にいてほしい。
 ただ、それだけが言葉にしなくても強く感じ取れる。

 きっと、それだけでいいんだろう。アイシアはずっと、それだけを望んでいる。簡単なことだ。こうしていればいい。いまだってできるのだから、この先だってできるはずだ。
 けど――それがずっととはいかないし、できない。

「俺は……いつか帰るよ」
「っ……」

 アイシアの顔が上がった。
 その瞳は涙の膜が張っていて、瞳が溶けてぼろぼろとこぼれ落ちてしまいそうだ。けれど、結局のところ俺にできることなんて、彼女に正面から向き合うことだけだ。

 嘘をいてもその場しのぎ。
 なら、本心から話すしかなかった。

「こっちに来て、楽しかったし、このままでもいっかなーって思ったりもする。けど、それは閉じ込められたままでいいってわけじゃないから」

 腕を持ち上げると、鎖がついてくる。手首に嵌った腕輪に触れると、ひんやりとして心地よさもあるが、同時に無機質で寂しさも伴う。

「もし、俺がいま望むとしたら……ここから出してほしいだけだ」
「――」

 あぁ、言葉を間違えたかなとそのとき思った。
 それは本心で嘘ではないけれど、もう少し伝えるべきことがあって、順番を間違えた。そう思うほどに、アイシアの顔は絶望に染まっていて、まるで人形のように感情が抜け落ちてしまった。

「あー……待った、もう少し説明を」

 と、付け加えようとしたときには遅くて。
 転がるようにベッドから下りたアイシアは、そのままこちらを向くことなく部屋を出ていってしまった。閉める余裕すらなく、開けっ放しになった扉が小さく音を立てて揺れている。

 誰もいない廊下を見つめながら、ぽとりと横に倒れ込む。

「…………やっちまった」

 ごろり、と転がって額を手の甲で打つ。
 穏便に……と思っていただけに、やらかした、という思いが強く重くのしかかってくる。人との会話は難しい。伝えようと思ったことの半分伝わればいい方なんじゃないだろうか。

「……また、機会はある、かな」

 俺の腕はいまだに繋がれていて、スノーティアの屋敷から離れられない。そして、俺の世話をしているのはアイシアで、だから、落ち着いたのなら戻ってくる。

「失礼いたします」

 けれど、時間を置いて部屋に入ってきたのは初老の執事だった。
 そしてその日、アイシアが姿を表すことはなかった。

 強い日差しが窓から差し込む。日は高く、夏は長い――。