第2話 縄張り争い
「……誰が、誰の婚約者だって?」
ゆらっと、イリスの背後でなにかが陽炎のように揺れた気がした。
「ルシアンは、あたしの婚約者なんだけど?」
「婚約を申し込んでいるだけだろう? 正式なものじゃない」
「…………そうだけど」
イリスは指輪に触れて、こっちを恨めしげに見てくる。いや、そんな風に見られても困るんだが。俺が婚約を断っているのは事実で、婚約者じゃないのもまた事実だ。
学園ではほとんどイリスの婚約者扱いされているけど、より地位の高い家なら正確な情報を把握していても不思議じゃない。
「ルシアンからそう聞いているよ」
「――ルシアン?」
……不思議じゃないが、そういえば俺が教えたんだっけか。
どういうこと? と、その黒い瞳が訴えかけてくるが、どうと言われたところで、言ったなー、くらいしか返しようがない。嘘を吐く理由も誤魔化す必要も感じてないんだから、そりゃ聞かれれば素直に話す。
それがいまの修羅場めいた現状の発端だと言われれば……そんなのわかるわけないじゃん、と涙ながらに言い訳したい。
「や、本当のことだし……」
「ルシアン黙って」
「はい」
喋るよう促されたのに、なんで黙らされてるのかすみません黙ります。
口をぐっと閉じると、イリスがむすっとしながらアイシアに向き直る。ぱっと手を開いて、アイシアに向けた。
「それを言うなら、あんたもじゃないの?」
「快く受け入れてくれたよ」
「…………あ゛?」
すんごい目を向けられたので、ぶんぶんっと全力で首を左右に振る。してません、受け入れていません。つーか、俺が渦中とはいえ、話し合いに巻き込むのはやめてほしい。場所も変えてほしい。できるなら、俺の目の届かないところで。
「妄想癖でもあった?」
「――というのはボクの理想だけど、これから正式な婚約者なるんだ」
ね? と、同意を求めるようにアイシアが俺に笑いかけてくる。
しないって断ってるはずなんだけど、この手の話で俺の意見が通った試しがない。というか、聞いてもらったことすらなく、俺のことなのに俺の扱いが低いのはどういうことなのか。
「ふーん」
と、鼻を鳴らしたイリスは、手に持っていた手紙を右に左にひらひらさせる。
「なんかの冗談かと思ってたけど、あたしに喧嘩売ろうって言うんだ」
「そんなつもりはないよ、イリス王女殿下」
大きく隆起する胸に手を添えて、優雅に頭を下げる。
格好こそメイドだけど、その所作は王子のように慇懃で、執事のように優雅な立ち振舞いだった。
「イリス様には屋敷で最高級のおもてなしをさせていただきます。どうか心ゆくまでお寛ぎくださいませ」
「あたしはルシアンと帰れればそれでいいんだけど」
「残念ですが、それは叶いません」
礼儀正しいようで、まったくへりくだってないな、アイシア。
そろそろ胃に穴が空きそうだ。女性とはそう縁のない生活を送ってきたのだけど、どこをどう間違えてこんな美人に取り合いされるみたいな修羅場に巻き込まれているのか。前世でどんな罪を重ねたんだが。
はぁ、とやたら重苦しいため息が零れる。
誰かこの冷え切った空気をどうにかしてくれないか、と思ったとき、開きっぱなしになっていた入口に見覚えのある人影が見えた。
長く波打つ栗色の髪。
小動物のように壁の影に隠れているのは、
「ルーナリア?」
「ひゃ、ひゃっ……!?」
不意に声をかけたせいか、ルーナリアは驚いたようにびくっと飛び上がった。
なんでここに?
不思議に思っていると、俺たちの視線を集めて慌てているルーナリアが目をぐるぐるさせながら早口で話し出した。
「そのっ、イリス様から事情を聞いてご一緒させていただいたというか、連れてこられたと言いますか……!」
「……あー、イリス?」
どういうこと? と見ると、そう、と平然と頷いた。
「最悪、スノーティア公爵家と喧嘩になるから、味方は多い方がいいかなって」
「かわいそう」
「いえっ、そんな……!」
わたわたとルーナリアは両手を突き出して振っているが、どう聞いてもイリスに強制連行されて巻き込まれている。俺と似たようなもので、同情して涙がほろりと零れ落ちる。
「案内されたお部屋で待っていたのですが、イリス様がルシアン様を探すと出ていかれてからお戻りになりませんでしたので……ごめんなさい」
「いやいや、謝る必要ないから」
むしろよく来てくれたと褒めちぎりたい。
勝手に部屋を出て屋敷の中をうろつくイリスを探しに来たんだろう。なんて優しい子なのか。
「これでおんなじ王女なのが信じられない」
「おい、いま誰と誰を比較した?」
「イリスとルーナリア」
「……正直に言えば許されると思ってる?」
思ってる。
実際、不満そうに唇を尖らせつつも、イリスはこっちの額をぺちんっと叩くだけだった。なんだかんだ優しいイリスが俺は好きです。
「ここで言い合ってもしょうがないし、着替えたいからひとまず出てってくんない?」
「いけしゃあしゃあと」
イリスからお前が原因だろ、みたいな視線を向けられる。けど、俺のせいではないだろ、イリスとアイシアのツノの突き合いについては。
「猫の縄張り争いみたいにシャーシャーし出したお前らが悪い」
「……こっちが隙を見せた途端によく口が回る」
「言えるときに言っとかないと無視されそうでなー」
ほら、とイリスの肩を押すと、しぶしぶといった様子だがベッドから立ってくれた。
「ルーナリアも、またあとで」
「あ、はい!」
手を振ると、こっちまで元気を貰えそうな笑顔で頷いてくれた。うん、かわいい。
最後にアイシアを追い出して終わり……のはずだったが、彼女はそそくさと逆に近づいてきてにこっと微笑む。
「お手伝いします」
「悪いけど、王女様が人を殺しそうな目をしてるから連れてって?」
なんで着替えひとつで命の危機を覚えなきゃいけないのか。