第5話 学園に入学するだけで、結婚するわけじゃない

「お」と、廊下に出るとイリスが立っていた。「はよ」
「はよ」

 急に声をかけられて、小動物みたいにびくっとしそうだったが、どうにか抑えて平静を装えた。ひらひらと手を振って応えると、壁にもたれかかっていたイリスがこっちに歩いてくる。

「へー、ふーん?」
「……なんだよ」

 腰を曲げて、ジロジロと人のことを見てくる。肩、胸、腕。ちょっと下がって、指で作った枠の中に収めてきた。
 なにほんと。
 そう思っていると、にっとイリスが笑った。

「いいじゃん、似合ってるよ」
「え、あぁ」

 これか、と襟を引っ張る。
 父上もそうだけど、そんなに俺が学園の制服を着ているのが物珍しいだろうか。……物珍しいんだろうなぁ。そもそも行くとは思ってなかったし、まず見ないだろうは格好だ。

 俺は何度か兄上たちの制服姿を見ているので、制服自体に新鮮味は感じない。

「父上にも言われたよ」
「……はぁ」

 なんか露骨にため息をかれたんだけど。

「あたしが最初に褒めようと思ったんだけど? なにしてんの?」
「知らんて」
「真っ先にあたしの部屋まで見せに来ないのが悪い」
「いいだろたかが制服くらい」
「いくない」
「……そうなの?」
「そ」

 そうなのか。
 なんか、そうまで言われると俺が悪いのかなーってなるから不思議だ。絶対に俺は悪くないのに。
 反省しろ、と胸をぽんっと叩かれる。

「つーか、そういうイリスだって俺以外に見せたんだろ、制服姿」

 ちょいっと指を差して指摘する。
 イリスも俺と同じで学園の制服を着ていた。純白の制服で、縁は藍色。細かい意匠が施されていて、貴族らしい品と洒落たものを感じる。

 スカートも統一された白で、遠目だとドレスにも見えた。
 イリスの普段の服装が黒系統なのでやたら新鮮に感じる。でも、黒髪黒目で調和が取れているというか、彼女が本来持っている気品さがあふれ出ていた。
 思わず感嘆の声が漏れ出る。

「へー」
「なに、その反応」
「や、お姫様みたいだなーって」
「あんた、あたしのことをなんだと思ってんの?」
「反抗期の不良娘」
「……お姫様よりはマシか」

 いいのか。
 まぁ、本人はあまり王女殿下とかお姫様とか拘ってなさそうというか、煩わしそうにしている。誰もが連想する正しい評価よりも、こっちの方がまだマシなんだろう。

「あと、あたしは最初だから。制服姿を見せるのは、あんたが」
「……そうなの?」

 不服そうにしながらも、イリスが頷いた。
 そうなんか。あー、でもあれか。執務室の前で待ってたのか、壁に寄っかかってたし。
 誰に見せるでもなく、真っ先に俺のもとまで来たというのは子どもっぽいなと思うのと同時に、道端で綺麗な花を見つけたような嬉しさがあった。

「それは俺が悪いな」
「でしょ?」

 思わず納得してしまった。
 だから、

「綺麗だよ」

 と、本心から褒めたのに、どうしてか彫像みたいに固まってしまう。なんでだ? と見つめていると、見る見る肌が赤くなっていく。黒髪の間からかすかに覗く耳まで赤い。

「風邪……じゃないよな?」
「うっさいちょっと黙って」
「はい」

 唇をぎゅっと閉じる。

「デリカシーというか、そういう意識ないよね、ルシアン。不意打ちでしょ」

 なにがだ。変なこと言ったか、俺。
 素直な感想だったろ、と思い返して……いや、綺麗つったか? 似合ってるじゃなくて。それはなんというか、意味が少し違って受け取られる気もする。
 でも、間違った解釈でも、イリスには適しているわけで。

 そう慌てることもないと思うんだが……そう照れられると、なんか俺がとんでもなく恥ずかしいことを言ったんじゃないかって、こっちまで顔が熱くなってくるからやめてほしい。

 長いまつ毛を伏せて、下から見上げてくるイリスから目を逸らす。

「や、制服似合ってるねというか、間違ってもないんだけど」

 なんで言い訳みたいなこと言ってんだ、俺。しどろもどろに。

「……言われ慣れてるだろ?」
「そんなないし」
「あるじゃん」
「でも、なんか違うでしょ……婚約者、みたいなもんだし」
「それは、なんか……そうだけど」

 婚約者なら否定できたけど、みたいとつけられると途端に難しくなる。
 なにこの空気。
 お互い目を逸らして、肩を抱いている。その癖、気になってちらっと視線を向けると、ばったり正面衝突してわたわたとまた逸らす。

 さわり、と素肌を羽箒で撫でられたみたいにくすぐったい。
 雨季が明けて、外は暑くなってきたけど、今日は一段と猛暑日だ。汗が後から後から吹き出てくる。

 どうすんだ、この空気。
 じりじり牽制し合っていると、横合いから「ルシアン」と声をかけられて「うひゃぃっ!?」と変な声が出てしまった。それはイリスもで、「んなぎゅっ!?」とか鳴いている。
 俺が言うのもなんだけど、なにその変な鳴き声。

 内側から胸を叩く心臓を抑えて声のした方を窺うと、母上が眉をひそめて俺たちを揃って訝しんでいた。

「廊下でなにを挙動不審な羊みたいなことをしているのですか?」
「い、いつも通りですが?」
「確かに、いつも怪しい存在でしたね」

 その解釈で、私が間違っていました、と言葉をひん曲げられるのは納得できない。でも、ここで余計なことを口にして、『では、なにをしていたんですか?』と問われたらたまったものじゃない。
 消化不良の気持ちは呑み込んで、空気を変えてくれた母上に感謝をしよう。

「……突然、私に向かって十字を切らないでください」

 なぜか息子ではなく、不審者を見る目を向けられた。感謝したのに。
 なのに、同じように挙動が怪しいイリスには優しく微笑むのだから、これは不公平で差別というものではなかろうか。息子にも優しさを振りまいてほしい。

「イリス王女殿下、王都から迎えの馬車が到着しました」
「感謝します」

 頬にかすかな赤みを残しているけど、どうにか取り繕ったイリスが応対する。お腹の辺りで手を合わせて、淑女らしい姿勢になった彼女を見た母上が、一瞬俺を見てきた。
 すぐにイリスに視線を戻して、深く頭を下げた。

「至らぬ息子ですが、どうかよろしくお願い申し上げます」

 ……父上といい、母上といい。
 どうして今生の別れみたいに、最後の最後でデレるのか。婚約でもなければ結婚でもない。ただ、学園に入学するだけだというのにその大仰さはどうかと思う。
 冷めかけていた火照りが戻ってきて、頭から冷水を被りたくなる。

「いえ、私は……」

 澄んだ声を引っ込めて、イリスは普段の低燃費な声に戻す。

「……あたしも至らない娘だから、お互い様」
「ふふっ、そうかもしれませんね」

 気安い言葉遣いと声に母上は笑みを零す。
 照れたようにイリスが頬をかいていて、俺はといえば話題の中心なのに口を挟める空気じゃなくて、いますぐここから逃げ出したい。さっきから肌が痒いんだよ、この空気ほんとやだ。

 母上が来て入れ替わった空気も肌かゆもので、どうにか換気できないものかと頭を巡らせていると、いまさらながらに母上がキチッとしたドレス姿なのに気づいた。

「母上はどこかに出かけるんですか?」

 途端、なぜか空気が重たくなった。
 あ、嫌な予感。
 長年の親子経験から働いた勘だったけど、逃げ出すには手遅れで。
 ジロリと母上が恨めしげに睨んでくる。

「……あなたたちの迎えの馬車に乗って、王妃様が来られました。なんでも、私と話をしたいそうです」
「すー」

 歯の隙間から空気を吸い込む。

「頑張って」
「覚えておきなさい。帰ったら酷いです」

 俺のせいじゃない、と言いたいけど。
 たぶん、というか絶対に俺とイリスのことだろうという確信があって、俺は謝罪を込めてもう1度、胸の前で十字を切った。げしっと脛を蹴られた。結構痛い。