第1話 女として初めて彼と出会い、その気持ちを“恋”と決めた。
――これからは女として生きていい。
突然、そう告げられたのはスノーティア公爵家に男の子が……弟が生まれたときだった。苦労をかけたな、と労われて跡継ぎとして生きるという役割がなくなった。
でも、どうしたらいいんだろう。
急に生き方を変えられるものじゃない。
これまでずっと男として生きてきたのに、これからは女として生きていいと言われてもわからない。男として、跡継ぎとして、そのためにだけに費やしてきた。役割以外の生き方なんて知らない。
けど、言われたからにはそう生きなければならない。公爵家の令嬢として生まれた者の務めで……それ以外の生き方なんて知らないから。
『……本当に女性でいらっしゃったのね』
困惑したその反応に、またかと辟易する。
女性としてドレスを着て参加したパーティで、幾度目かの反応。嫌悪すら覚えるが、その原因はボクの姿にあるのだから、怒るわけにもいかず曖昧に笑うことしかできない。
奇異の目、蔑む目、憐憫、邪な視線。
男を演じていたときにはなかった感情や視線を向けられて、笑顔の裏で心が削られていくのを感じていた。
それは世界が一変したようで。
見知らぬ人しかいない、言葉も通じない土地でぽつんっとひとり立っているような孤独感、そして焦燥があった。
でも、それを表に出すわけにはいかない。
『――どうして男性として振る舞っていらしたの?』
笑顔で応える。
『――女性としての君はとても美しい』
笑顔で応える。
『――これまでお辛かったでしょう。お可哀想に』
……可哀想、とはなんなのか。
男性として生きてきたことが? でも、ボクにとってはそれが当たり前で、いまの女性として生きている状態こそ不自然で、ズレている。けれど、周囲はそれを当たり前に受け入れて、同情を向けてくる。
男としてのボク、女としての私。
それぞれに向けられる感情の差異が、笑顔の裏でボクの心を少しずつ削って、傷つけていく感覚があった。
『……はぁ』
会場の壁際。
人目に触れにくい場所でため息を零す。それはやたら重く、胃の底で澱のように沈殿していたモヤモヤが吐き出されたようだった。
女性として何度パーティに参加しても慣れることはない。男性のときとは違う疲労の蓄積が重圧となってボクの肩を重くしている。このまま帰りたいな、という気持ちばかり大きく膨らむが、公爵家の令嬢として勝手な振る舞いは許されない。
結局、男性としてであっても、女性としてであっても、そのことは変わらないらしい。自嘲し、口の端が歪むのを感じる。ただ、それを誰かに見られるわけにもいかず、きゅっと引き締めるとまた重い吐息が上ってくる。
『『……はぁ』』
と、漏れ出たため息が重なる。
さっと口元を押さえて隣を見ると、そこにいたのは壁に寄りかかった銀髪の男性だった。ボクと同じようにため息に釣られた銀の瞳が、こちらを見つめていた。
よくないところを聞かれた。
頬が熱を持つのを自覚しつつ、意識して目端口端で笑みを作る。
『……ルシアン様、お久しぶりです』
彼のことは覚えていた。
貴族として顔と名前を一致させるのは出来て当然だけれど、特にルシアンは印象に残っている。
――うわ、めんどくさ。
というか、こんなことを初対面で言われて忘れるわけもなく、そのときの面倒だ、という顔も鮮明に思い出せる。関わってくるな、というのが全身からあふれていて、いろいろな意味で驚かされたものだった。
後に『パーティに強制参加させられていたイラついていたから』という理由を聞かされたけれど、身分のことを考えなくても凄い態度だと思う。
非礼な態度だった。
でも、そんな初対面だったからこそ、ボクも力を抜いて話せていた。気を遣わない……というと語弊があるけど、ルシアンはそう思える唯一の相手だった。
……でも、それも今日まで、かな。
他の人たちのように、女性になったボクに驚き、態度を変える。もしかすると、他の男性同様、下卑た視線を向けてくるかもしれない。……そう思っていたけど、
『へー、珍しい格好してるな』
と、ルシアンはボクのドレス姿をちらりと一瞥しただけで、それ以上触れることはなかった。態度も変わらず大柄とも取れるもので、え、とこっちが驚いてしまうほどに、彼はいつも通りだった。
『あの……それだけ、ですか?』
『言葉遣い変わった?』
『それもですけど……えぇ』
困惑する。
もっと言うことがあるだろうと、そういう不満にも似た感情が態度に出ていたのか、面倒とばかりにルシアンはうぇーっと口の両端を落とした。
『なに? 褒めてほしいとか? はいはい綺麗綺麗』
『そういうことではなく……』
どう言えば伝わるのか。
やきもきしていると、グラスの果実酒を呷ったルシアンが「そういうこともあるだろ」と軽い調子で言う。
『これで……何回か会うけど』
『3回目です』
『……よく覚えてるね』
むしろ、なんで覚えていないのかと文句を言いたくなるけど、いまはやめておく。
『中身まで変わったわけじゃないからな。俺の言葉遣いも許してくれてるし』
『それは……いいんです』
『そゆこと』
公爵と子爵。
彼もボクも跡継ぎでこそないが、身分の差はある。だから、本来であればルシアンの態度は褒められたものではないし、ボクは諌めるべきなのだろうけど……最初はともかく、“そのままで”と望んだのはボクだ。
だから、それは理由にならない……と思うのだけど、どうなんだろう。
『貴族ならそうした事情も珍しくないし。騒ぎ立てるほどのことじゃないだろ』
ルシアンは軽く言うが、実際それができている人はいなかった。
この会場には多くの貴族がいる。それでも、男のときとは違う視線や感情を向けてきていて、ボクはその変化を敏感に感じ取っていた。
でも、ルシアンだけは以前のまま、普通に接してくれる。
それはボクにさして興味がないからかもしれない。今日を合わせてもたかだか3回しか会っていないんだ。それも年単位で間が空いている。冷めた態度は関心の薄さの現れなのではないだろうか。
それでもボクは――私は、ルシアンだけが本当の自分を見てくれている、その事実が嬉しかった。
男でも女でもなく。
変わらず“アイシア”を見てくれている。自分でもわからなくなっていた“アイシア”を彼だけは知ってくれている。曖昧になっていた自己の輪郭が、ハッキリしたような感覚があった。
『ルシアン様……ありがとうございます』
『? なにが?』
これが真っ当な感情ではないのはわかっている。
『私を見てくれて』
それでもボクはこの気持ちを“恋”と呼んで――落ちることにした。
◆ ◆ ◆
「んぁ……ふぁ」
眠気が口から漏れる。
昨日はイリスたちと湖で遊んで、やけに疲れていた。そのせいか、眠りが深く、こうして起きてもまだ瞼が重く、目尻が涙で濡れる。
「かーてん、しめっぱ……」
いつもならアイシアが開けてくれているのだけど、まだ朝じゃないのか。瞼の隙間から窓を見ると、カーテンの隙間から陽の光が差し込んでいた。朝日かはともかく、陽が上ったのは間違いなさそうだった。
「早く起きすぎたんかねぇ」
また寝ようかなーとも思ったけど、せっかくならと体を起こして……ガシャン?
振り上げた腕が途中で止まった。
まるでなにかに引っ張られているような感覚。なんだろうね、と呑気に考えて手首を見たら、そこには腕輪が嵌められていた。
「……」
眉間に深いシワが寄る。こんなものを嵌めた記憶はないんだけど……。
むむむっ、と強い違和感を抱きながらも、よくよくその腕輪を観察すると、鎖が伸びていた。それはベッドの支柱に繋がっていて――ははぁん? だから腕が上がりきらなかったんだなと納得して……して、
「いや、納得できないが? なにこの状況」
朝、起きたら鎖で繋がれてるとかなにごと。
誘拐か? 誘拐なのか?
でも、そういうのって普通、令嬢であって俺みたいな木っ端貴族の役目じゃないと思うんだけど。
「――ルシアン様」
全身がびくぅっと震えた。
いるとは思わず、心臓がバクバクと早鐘を打つ。噴き出す冷や汗を背中に流しながらベッドの脇を窺うと、暗闇の中に薄っすらと人の顔が浮かび上がって、ひゃいっと悲鳴を上げかけた。
「ア、アイシア……か?」
「はい」
暗がりでわかりにくいが、薄っすらと微笑まれた気がした。
アイシアがいる……ということは、ひとまず誘拐ではないのかもしれない。一緒に捕まっている可能性もあるけど、それにしてはアイシアは落ち着いている。
誘拐ではなさそうという事実に小さく安堵し、じゃあこの鎖はなんなん? という問題に再度突き当たる。……突き当たって、まさかなー、という考えに至る。
引き攣る頬を自覚しながらアイシアを呼ぶと、彼女はより深く暗い微笑みを浮かべた。
「――これからはずっと一緒です、ルシアン様」
優しくて、幸福に満ちた声なのに……背筋が震えるほどの空恐ろしさがその声にはあった。