第10話 風呂上がりの黒髪に触れる
娼館から屋敷に帰ってきて、俺は自室で本を読んでいた。
王妃から借りた王宮ラブロマンスは読み終わっている。忙しいだろうと、手紙を添えて使用人伝えに返したのだけど、新しい本とともに『今度は直接感想を伝えてね?』と手紙が送り返されてきた。
王妃と感想会……もはや恐れ多いとかではなく、ただただ意味がわからない。どういう経緯を経たら、王妃様と本仲間みたいになるのか。足元から痕跡を辿って見ても、やっぱり意味わからん。しかもラブロマンスって。
「……今度のは王女と子爵の子息との恋愛モノ」
なんか、ページを捲る手が重いんだけど。
俺が本を選ぶならまず選ばないセレクション。投げ捨ててしまいたいが、これは王妃の私物だ。まさか読まないわけにもいかず、苦悩に塗れながら文字を追っている。
『真実の愛を見つけた』? なんだか身震いがする。
「るしあーん」
突然、イリスがノックもなく入室してくる。思わず、本を投げてしまう。やべ、と思うも着地点はベッドで、ほっとする。折れ目もないな、と確認して、先触れもなく人の部屋に入ってきたイリスにじとっと視線を送る。
「ノックしろー」
「あん?」
いそいそと本を回収しているのを確認して、イリスがニヤリと口の端を歪める。
「なに? 塗れ場だった?」
「違うっての」
「そういうの、過激なの多いよね」
「違いますー、王妃様からの借り物ですー」
「王妃は『文学だから』って言い訳してたな」
じゃあ文学だろ、いいだろそれで。言い訳とか言うなよ。
まったく。
内容を悟られたくないので、ささっと机の引き出しに仕舞う。疑わしげな目を向けられもしたが、それだけでイリスはすたすたと歩いて、ぼふっと人のベッドに腰掛けた。
「…………」
「なに?」
「ナンデモナイヨ」
言ったところで意味はないのは実証済みだ。無防備とか、男の部屋とか。はんっと鼻で笑われて終わりだろう。
「俺が紳士でよかったなー」
「……はんっ」
侮蔑的な目を向けてきて、結局、鼻で笑われた。
なんで俺は人畜無害な羊ですよと宣言したら、バカにされなきゃいけないのか。そもそも、人の部屋に勝手に入ってきてその態度はどうなんだ。
俺か? 俺が悪いのか? そんなわきゃーない。
「ほんとルシアン」
「人の名前をバカの類語みたいに使わないでくれます?」
というか寝るな。
「なんで、髪濡れてんだよ」
「お風呂入ったから」
でしょうけども、そういうことじゃない。
なんでそのまま俺の部屋に来たかって聞いてるんだよ。一応、頭を拭く布は持ってきているみたいだけど、そもそも乾かしてから来いという話だ。
……いや、というか来るなよ。
「ベッド濡れんだろ」
「じゃあ拭いて」
「なんで俺――べふっ」
布が顔面に飛んできた。
石鹸の香りだろうか。爽やかな香りが鼻を満たす。その中に混じる甘い香りにわずかに狼狽えて、布を引き剥がす。イリスは寝たまま、こっちに背を向けていた。
拭けってことらしい。
投げ返してやろうか。
でも、放置したら居座りそうだよなぁ。風呂上がりで、肌が上気した女の子といつまでも同じ部屋にいるというのは、健康上の理由からよろしくない。
「しゃーねーなー」
椅子からベッドに移動すると、跳ねるようにイリスは起き上がった。
俺に背中を向ける。
どうぞ、とばかりの態度に思うところはすげーあったが、そういえば王女様だもんなと呑み込む。自分でやることはなかったはずだ。いや、メイドにやってもらえよ。
「触るぞ」
「……なんかやらしい」
「ぐうぇへへ、触っちまうぞー」
「きゃー」
棒読みの悲鳴を無視して、黒髪に触れる。
イリスの髪は短い。
貴族令嬢は長い髪を好む者が多い。女性的だからというのもあるけど、手入れの行き届いた長い髪はそれだけで身分の高さを表した。肩口程度の長さというのはあまり見ない。
その理由は……まぁ、黒髪だからなんだろうな。
世情に疎い俺だけど、エリサの街での様子とかですべてとは言わないまでも、察せるものはある。そういう理由がないとは思わない。イリスの場合、ただ単純に手入れが面倒だからでも納得するけど。
現にこうして、人任せだし。
女の子の髪なんて拭いたことないんだけど、どうすりゃいいんだ。
わかんないからバサバサーと勢いよく拭いたら、「雑」と文句を言われてしまった。わかんねーし。じゃあどうしろって言うんだよ。
「メイドにやってもらえ」
「丁寧にやって」
続けろ、らしい。
わがままな王女様だよまったく。
わからないながらも、俺が思う丁寧で髪の水滴を拭っていく。濡れた髪は少しだけ重くって、いつも以上に艶めいて見えた。絹みたいに繊細で、黒い宝石みたいに輝いている。
綺麗だよな。
長く伸ばした彼女を髪を見てみたいと、そう思うくらいには感じ入る。
「女の髪を簡単に男に触らせるもんじゃないぞ」
綺麗だったから、小言のような気持ちが漏れた。
女の子にとっての宝で、命。
それをぞんざいな男が触っていいとは思えなかった。ただ、それだけだったんだけど、不意にイリスがすくっと立ち上がった。
「イリス?」
「…………っ」
呼ぶと、布を奪い取られた。
なんだなんだ。
態度の急変に目をパチパチさせていると、バシンッと叩きつけるように布を投げつけられた。
「――簡単なわけ、あるかっ」
叫んで、ドタドタバタンッと騒々しく出ていく。
「…………」
布を投げつけられる直前。
一瞬見えたイリスの顔は真っ赤で。
「……羞恥心はあるのか」
なんて、我ながらちょっとズレたことを思った。
◆ ◆ ◆
――来客があります。
雇っている――正確には俺ではなくイリスが――メイドがそんな知らせを寄越した。
学園のない、昼下がり。
今日はお菓子でも作ろうか、と厨房で食材の残りを見ていたところで、急な来訪に面倒という感情が表に出た。
誰だ先触れもなく。
そんな悪態を声に出したいところだが、陛下辺りが『よ』と手を上げながら呑気に来る可能性も捨てきれず、どうにか喉まで上がったそれを胃まで押し返した。
「誰?」
と、訊いたが、メイドから名前はお伝えしないようにと言付かっております、と素気なくされてしまった。一応、俺の扱いは家主で、それよりも優先する相手ってやっぱりあれか、陛下か。もしくは王妃。
嫌だなー面倒だなーと思いつつ、玄関まで出迎えに行って――そのまま開けた扉を閉じた。
「おいこら息子。久々に会いに来た父親になんて態度だ」
「めんどくせぇ」
胃に収めた悪態をこれでもかって声に出す。
やってきた父上は口の端を引きつらせながら、こいつ、と悪態をついていた。