第5話 ボクは――私は……わからない

 見下ろしてくる黒い瞳からどう逃げられるか考えてみる。
 左腕には腕輪が嵌められて、右腕はふくよかなアイシアの胸に挟まっている。うん、無理。冷たすぎる視線に凍えそうだけれど、世の中にはどうしようもないこともあるんだ。

「つまり、俺は悪くない」
「悪いでしょ、心配させたんだから」
「さーせん」

 軽い謝罪にイリスのこめかみがぴくり動く。怒ったかな? と思ったが、瞼を閉じてため息をくだけでに留めてくれた。思ったよりも機嫌は悪くないのかもしれない。

「じゃ、帰るよ……って言いたいんだけど」

 イリスの視線が俺の腕、そこから伸びる鎖を追いかけていく。華奢な指先で鎖に触れて、呆れた様子で眠たげに瞼を半分閉じた。そういう反応になるわな、そりゃ。

「……ここまでする? 部屋も鍵かかってたし、執着というか、狂愛?」
「怖いこと言うなよ」

 現状を顧みると的外れじゃないどころか、ド真ん中射抜いていそうで嫌だ。

「って、鍵?」
「なんで知らないの」

 脱出する気あんの? みたいな目で見られる。
 いや、そんなこと言われても、鎖で制限されてるし、鍵がかかってるからどうかなんて確かめようもない。けど、じーっとジト目を向けられると、なんだか俺が悪いような気がして、ついっと顔を背けてしまう。

「あー……でも、それならよく入ってこれたな」
「マスターキーくすねてきたから」

 ふふん、とイリスが得意げに鍵束をジャラリッと揺らした。そうなるか、とは思いつつも、その手癖の悪さを誇るのは王女としてどうなんだと思わなくはない。

「プロだな」
「女盗賊って呼んで」
「わー犯罪者」

 などと和やかにしている状況じゃないんだけど。
 一応、小声で話しているが、すぐ傍でアイシアが寝ているんだ。そうこうしているうちに物音で起きるかもしれない。それはイリスもわかっているようで、話しながらも俺の腕を確認していて、ちっと小さく舌打ちした。

「はしたない」
「腕いる?」
「いらないって言ったらどうなる?」

 なんか手刀を構えられた。発想が物騒すぎる。
 あれやこれやとイリスが試したが、やはりそう簡単に腕輪は外れない。頬に指を押し当てて、イリスがぷにっと押し上げる。

「まさぐるか」
「変態だー」

 誰がだ、と睨まれるが、寝ている女性をまさぐるというのは、同性異性関係なく変態扱いをされてもおかしくないと思う。そうじゃなくても、起こすかもしれないのにイリスは本当に手を伸ばそうとして、俺はそれを途中でぺしっと軽く払い落としておく。

「なに? 一生このまま飼われてたいって?」
「言ってない」

 思ってもない。
 でも、切実な公爵を思い出すと、このまま出ていくというのも気が引ける。俺がなんとかできる問題なのか? という疑問はあるけど。
 それでも、もう少しくらい公爵のため……というかアイシアのためにしてあげられることがあるんじゃないかって、そう考えてしまう。

「なに考えてんの?」

 真意を探ろうとするように、イリスの瞳が鋭利に細まる。
 イリスから見れば、アイシアとは学友で、派閥の仲間でもある。それでも、今回のことは許せない……と思っているはずだ。たぶん、それくらいには、俺のことを心配してくれているんじゃないかなー、って。照れが先行してなかなか認め難いが。

 イリスからの厳しい視線に晒されながらも、俺は自分の気持ちを伝えておくことにした。

「もう少しくらい、付き合おうかなって」
「本気で言ってる?」
「ガチ」
「いつでも助け出せる……って、確約できないのわかってる?」
「わかってる」

 でも、と俺は続ける。

「……こんなことされてるけど、嫌いじゃないから。多少、骨を折るくらいはしとかないとなって」

 そう吐露する。
 言って、その宝石のように輝きを放つ黒い瞳で長く見つめられる。まるでどれだけ本気かを計るように見つめられ続けて、はぁ、とため息をかれた。

「あんた、そんなお人好しだったっけ?」
「雨に打たれてる野良猫を保護するくらいの優しさはある」
「ないでしょ」

 なんかバッサリ斬られたんですけど。
 俺はそんなに無情な人間に見えるのか。濡れた野良猫を1日雨宿りさせるくらいの甲斐性はあるつもりだ。面倒見れないから飼う気はないけど、それくらいの情はある。

 なんていうことを語ると、「あ、そ」みたいに呆れられてしまった。もしかして、この対応は優しくなかったのだろうか?

「……絆されやすくはあるんだろうけど」

 ぼそっ、とイリスがなにごとかを呟いた。
 聞き返そうとしたが、とんっと伸ばした人差し指を胸に押し当てられて、声にはならずに吐息だけでもれた。

「いい? あんたはあたしのだから」

 ぐりっと俺と指先をイリスは捻る。
 服の下には黒い宝石を乗せた指輪があって、忘れるな、と言われているようだった。

 別に俺は誰のものでもないんだけど。
 心配しているのは伝わってくるので、茶々は入れないでおく。

「あと、一緒に帰るんだから、早くして」
「えー」

 急かされたところで、どうにかなるもんじゃないんだが。
 とはいえ、イリスにとっては決定事項らしいので、形だけでも頑張ると拳を握っておく。本当に大丈夫か? みたいな不安交じりの目を向けられるが、そう言われてもというのが俺の気持ちだ。

 人の気持ちなんて、簡単に変えられない。
 そんなことは当たり前で、どれだけ頑張ったところでどうしようもないことの方が多い。それでも、なにかしたいと思うのは俺のエゴで、やれることをやって気持ちに区切りをつけたいというわがままでもある。

 だから、確約なんてできやしないけど、

「もうちょっとだけ」

 アイシアに付き合おうと。
 そう思うくらいには、俺はアイシアのことを気にかけていた。

  ◇ ◇ ◇

 話し声が聞こえる。
 その声はどこか楽しげで、ボクに向けられることのない感情があった。

 胸が痛い。
 ナイフを突き立て、透明の血が流れていく。
 いますぐに泣き出したいくらい痛く痛くて、子どもが母親に甘えるようにルシアンの腕に縋りつく。彼女と話してほしくない。瘡蓋のように固まった血が見えない傷口の裏で胸を重くする。

 でも、ルシアンは残ってくれた。
 嬉しくて、やっぱり泣き出しそうになる。ただ、それでも不安は胸の奥で固まり続けて、ボクを駆り立てる。

 ――このままじゃ駄目だって。

 でも、どうすればいいかボクにはわからなかった。
 こうして閉じ込めても、誰かが彼を連れ出そうとする。湖の底に一緒に沈もうとしても、彼の手を取って引き上げようとする人がいる。
 どれだけ好きを伝えても、彼の心はボクに向いてくれない。

 どうしようどうすれば。

 わからない。わからない……わからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからない。

 ボクは――私は……わからない。