第4話 甘く、狂った距離感を、俺たちは普通と呼ぶ

「……ビュッフェ?」

 無垢な瞳からさっと目を逸らす。
 テーブルの上にはハンバーグにパスタ、ホットサンド、焼き魚にお味噌汁、シチュー、野菜とか。まぁ、色々ある。大皿に乗せているからビュッフェと言いたくなる気持ちもわからなくはない。

「誰だこれ用意したの」
「ん」
「……フォークで差すのは行儀悪いですよ」

 ちょっと気合入れ過ぎた。

「食べれるだけ食べて。あとは冷蔵するから」
「お持ち帰り用のタッパーある?」
「フードロスのがね」

 飲食店じゃなくても、ロスは最低限にするべきだ。

「で、なんでこんなに作ったの?」

 流れで誤魔化されてほしかった。
 顔はニヤニヤ。テーブルの下で足をぷらぷらさせて、俺の足をイジってくる。足の指で脛をつーってしないで。くすぐったくないけどぞさってする。

「……来てもらって、助かったからお礼、みたいな」
「デリヘルだったか」
DeliveryHealth健康をお届け

 精神的な意味なら間違ってもないかも、なんて思ったりする。
 茶々を入れられつつも、ちゃんといただきますをして食べ始める。

「料理上手いよね、律」
「将来は料理人かなー」
「なにもしないで笑顔で立ってるだけの看板娘は私だね」
「志望動機は?」
「食って寝るだけで稼ぎたい」
「採用」
「永久就職ー」

 それはなんか違う。

「うん、美味しい」

 ……いつぶりだろ、誰かと朝食食べるなんて。
 灰野がホットサンドにパクついている。母と朝食を食べたのはどれだけ前だったか。それどころか、一緒にご飯を食べた記憶すら、子どもの頃しか覚えてない。
 絵の具が乾いていない絵画に、水をぽたぽたと垂らしたように朧げだ。

 その上に、新しく色を塗っていく。

「ふぁに? んっ、食べさせてほしいの?」
「あー」

 口を開けたら、ずぼっとハンバーグを突っ込まれた。

ふぇふぁふね?デカくね?
「あー」

 焼きおにぎりを小さく開いた灰野の口に入れる。

「焦げた醤油うまー」
「味噌もある」
「口開けてー」

 気づいたら食べさせ合いになっていて、やたらと長い朝ごはんで……ちょっと、楽しかった。

  ◆ ◆ ◆

 昨日の雷雨が嘘のように、外は夏晴れだった。
 高く青い空を浮雲が泳いでいる。濡れたマンションの廊下が、昨晩から続いた雨が幻じゃないのを教えてくれていた。

「送んなくていいの?」
「じゃあ送って」
「へい」

 というわけで、着替えて一緒に外に出る。
 普通、そこは『大丈夫』と返すところだと思うんだが、灰野だし。こうなる。

「傘捨てといて」
「不燃今日だ」
「傘って不燃なの?」
「うちの地域はそう」
「へー、火山に落ちても燃えないのかな」

 不燃ってそういうことじゃない。
 水たまりを避ける。その水たまりを灰野は踏んで、俺のスウェットにぴしゃりと跳ねた。

「……ご機嫌だな?」
「水玉模様もいいかなって……うん、ごめん。反省してまーす、ちっ」
「チャッピーに反省の意味訊いてこい」
「表向き謝ること、だって」
「調教済みかよ」

 自分専用のAIって、そうじゃないだろ。
 水たまりを踏んで、跳ね上げて。

「あ、バス来てる」

 バス停の道路。その奥から向かってくるバスを見つけた。

「家までは?」
「いらない」
「さいですか」

 停まったバスに、灰野が乗り込む。
 振り返って、「じゃね」と手を振ってきた。

「また午後ね」
「じゃ……?」

 ……午後?

「灰野さん?」

 訊き返すもなく、バスの乗車口がプーッと音を立ててしまった。窓からこっちを見ることなく、空いている席に座る灰野が遠ざかっていく。

 走っていくバスを見送って、スマホを見る。
 8月の中旬。30℃を超えて、今日も暑い。

「で、金曜日」

 ネカフェの日……だけど、行くの? 今日? 会ったのに?

  ◆ ◆ ◆

 一夜を共にした――というと、語弊しかない。……ないが、それでも似たような感覚はあって、420番。いつもの部屋を開けるのに、微かな躊躇ためらいがあった。

「ココアー」

 開けた途端、パンツが見える角度で寝ている灰野からパシられてすぐにそんな躊躇ためらいもなくなったが。

「普通……だな」

 うん、普通。
 ならいいのか。……少しだけ悲しい気もするが、ほっとしてもいる。ココアを淹れて、ガムシロップとクリームを入れる。スタッフのおすすめコーナーで、適当に漫画を選んで脇に挟む。

「持って来ましたよお嬢様」
「ご苦労あそばせ」

 起きもしないで、灰野の手がふらっと上がって、パタンッと力なくフラットシートに落ちる。

「だらけてるなー」
「人生の1/3は寝ているんだよ」
「純情な感情」
「……はぁ」

 微熱混じってないため息なんだよ、それは。
 名曲は世代を選ばないよな、と思いつつ定位置にココアを置く。そのまま俺も定位置にぽふんっと座って、漫画を開く。

「……なに読んでるの?」
「バーテンダーの漫画」
「カシャカシャ?」
「シェーカーな」
「ツーカー」
「起きてる?」

 寝言と喋っている気がしてならない。脳内CPU使用率0では?

「起きてるからー……むにゃむにゃ」
「おやすみ」
「……ぐぅ」

 本当に寝たのか。
 俺と同じで10時間近く寝てたはずなんだが、よく寝るな、こいつ。結局、ココア持ってきた意味ないし。冷める前に飲むか。……あんまっ。

 喉が死ぬ。やっぱり砂糖の泥水だろ、これ。
 もうコーヒーと混ぜた方がいいんじゃないだろうか。カフェモカになるし、まだ飲めそう。コーヒーに手を伸ばそうとして――ぐいっと灰野の腕に首を引き寄せられた。

「……起きてるのかよ」
「私のココア」
「飲まないから」

 至近距離。
 まつ毛長いなー。重力に引っ張られる前髪が触れるくらい近いのに、毛穴ひとつわからないんだから、本当に肌が綺麗だ。顔以外も……と風呂場のことを思い出しかけて瞼を半分閉じる。
 脳内にも謎の光が欲しい。

「まだ残ってる。嫌ならまた取って――」
「ん」

 唇が触れた。
 柔らかく、ちょん、と一瞬くっついて。
 灰野の舌がリップを塗るように、俺の唇の上を這っていった。

「…………なに、してんの?」
「奪い返しただけ」

 うん、甘い、とそんな感想を灰野は零す。
 この状況。
 奪われたのは俺なんだけど。

「初めてだったんだけど」
「私もー。ココア飲むー」

 と、あっさり俺を押しのける。
 クッションを抱えて座って、ココアを飲んでいる。通学路を歩くように、その振る舞いは日常そのもので。
 俺はコーヒーを飲む。

「…………甘い」

 ブラックなんだけどな。

 引いた線が消える。
 曖昧になって、正しい距離がわからない。狂った距離感を、俺たちは普通と呼んで当たり前にしていく――。

  ◆第1部&第6章_fin◆
  __To be continued.