第3話 好きな女の子はいる?

「今日は鮫の気分」

 犬でも吸血鬼でもなく、鮫だったらしい。違いなんてわからないが。
 うぅっと威嚇するような唸り声は犬みたい。でも、本人が鮫と言っているなら鮫なんだろう。これ以上噛まれるのもあれなので、振り解いて定位置に座る。……よだれついてる。

「で、なに怒ってんの?」

 なんかしたっけ?
 歯をカチカチ噛んで音を立てた灰野は、うつ伏せになってぼそっと零す。

「……律には関係ないから」
「噛まれたのに?」

 しかも、俺が悪いってさっき言ってたのに。
 よくわからないけど、先週会ってからその間になんかあったんだろう。わざわざ水曜日に呼び出すくらいだし。

「圧はかけといたから大丈夫だと思う」
「パワハラ上司?」
「違う、お話しただけ」

 オブラートに包んだ言い換えにしか聞こえないが。
 ただまぁ、疲れているのは本当みたいで、立ち上がるどころか身動きひとつしない。こういうときの灰野はエネルギーが不足しているのかもしれなかった。
 ネカフェには寝に来てるって感じだったもんな。

 テーブルを見る。なにも置いてない。

「飲み物取ってくるわ。ココアでいいな?」
「……」

 そろっとベージュの瞳が端に寄って見上げてくる。

「……うん、お願い」

 素直。
 ドリンクバーでココアを淹れる。

「体に悪そう」

 ガムシロップとクリームを入れる度に思う。灰野の体は血の代わりに甘すぎるココアが巡っているんだと。健康に悪いから止めさせたい気もするが、ただのクラスメイト。余計なお世話でしかないし、ああいう空っぽの灰野を見るとこれくらいは、と思ってしまう。

「社畜のエナドリみたいなものか」

 灰野は甘すぎるココアで動いている。

「……運動くらいは付き合うかな」

 多少、代謝もよくなって、マシになるかもしれない。効果のほどはわからないけど。
 コーヒーと一緒に持って帰ると、やっぱり灰野は部屋を出る前と同じ体勢だった。浜に打ち上げられた魚……というか、鮫? 微動だにしない。

「持ってきたぞ」
「うん」

 返事だけ。

「……飲まないの?」
「じゃあ、飲ませて」
「口移し?」
「ちゅー」

 冗談で言ったのに唇を尖らせてきた。
 やれということか。やらんけど。

 飲ませてという割には起きる様子もない。ただ、このまま放っておくのもなー。ふむ。考えて、灰野の脇に両手を突っ込む。

「…………なに?」
「座らせようと」

 さすがに寝ながらは飲ませられないし、お行儀も悪い。
 前も思ったけど軽いよな、灰野。お腹に贅肉ないし、子どもみたいに簡単に持ち上げられてしまう。

「ちゃんとご飯食べてる? 野菜も取れよ」
「田舎のおばあちゃん?」
「飴ちゃん食べる?」
「たべりゅー」

 引き出しの少なさに泣きそうだ。田舎のおばあちゃんって、なにを言うんだろうね。細すぎる、もっとお米食べな! とか?
 壁に背をつけさせて、ココアの入ったカップを持つ。
 持って……。

「零しそう」
「服汚したら勉強。ちな2万」

 緊張感増したな。

「……ストロー持ってくる」
「いやいける」
「俺がいけねーのよ」

 怖すぎる。
 なので、ストローを持ってきて再トライ。戻ってきたら灰野が寝転がっていた。

「……なんでもとの体勢に戻ってんだよ」
「眠い」

 赤ちゃんめ。
 しょうがなく、また脇にズボッてして起こす。眠たげに落ちた瞼。その無気力さはどこか西洋人形を思わせた。やってることはおままごとの人形だけど。

 カップにストローを差して、灰野の口元に運ぶ。

「ん」

 ちょん、と薄い唇に触れて、吸いついた。
 ストローの中をココアが上っていく。そのまま灰野の口まで上って、

「ゔぇふ」

 むせた。
 だぼっと緩めのシャツに飛沫が跳ねたような……気のせいだろう。俺はなにも見ていません。普通に俺の顔には跳ねたが。

「ごめん」
「いや、いいけど」

 手の甲で頬を拭う。

「ご褒美だった?」
「やっぱ謝ってくれる?」
「ごめんなさい」

 今日はやけに素直だな。ぺこっと頭を下げてきた。
 そのまま軟体動物みたいに溶けて崩れそうになるのを支える。

「なんかもうあれだ、介護してる気分」
「おじいちゃん、飯はまだかのうぉ?」
「3日前に食べたでしょう?」
「昨日はローストビーフ」

 いいもん食ってるな、このおばあちゃん。
 のべーっと倒れそうで、このままだとココアを飲ませるどころじゃない。置いといても勝手に飲むだろうから、それが一番お互いに無駄のないやり方なんだろう。
 でも飲ませる。なぜなら意地になってきたから。

 というわけで、後ろから支えて飲ませる。

「楽」

 ぽふ、と頭を預けてくる。

「ねー」

 ストローでちゅーちゅーしながら、灰野が訊いてくる。

「律は好きな子いる?」
「子持ちししゃも」
「私はいくら」

 お高い女だ。

「で?」
「修学旅行の夜かよ」
「いいでしょ教えろよー」

 頭で胸を叩いてくる。
 なんか急。どういう思惑でこんな話を振ってきたのか。……あー、なる。

「告白されたのか」
「……」

 なんか黙っちゃった。

「…………むしろ逆というか」
「逆?」
「で?」

 反応がループしている。
 ココアを置くと、灰野が体を反転させた。向かう……というか、膝の上で抱きつくような体勢になる。灰野の胸が俺の体で潰れる。琥珀の瞳、その奥すら見通せそうな距離で俺を見つめてくる。

 瞳の中で、自分と目が合った。

「いない」
「そっか」

 ならよし、と首筋に顔を埋めてくる。
 なにがよしなのか。
 両手を上げて、こっからどうしようと、鼓動が早くなるのを感じる。

「……制汗剤と汗の匂い」
「隠しきれてないな」

 香水でもつけようかな。
 なんて思ってたら、カプッ、と噛まれる。鮫は続くらしい。