第2章

第1話 婚約者でもないのに王妃と顔合わせをします

 その日の朝は準備に追われていた。
 本当なら実家に帰っているはずなのに、俺はまだ王都の屋敷にいて、姿見の前で身だしなみを整えている。なんでこんなことに……と嘆きたいというか、嘆いてみたけど「はんっ」と鼻で笑われるだけだった。

「やだって言ったのにぃ」
「いつまでぐちぐち文句言ってんの?」
「ちょっと着替えちゅーなんですけどー?」

 部屋の入口から元凶であるイリスが覗いてきていた。睥睨してきて、その顔には往生際が悪いと書いてある。俺だっていまさらだとは思うけど、かといって諦めきれるかというとそんなことはなく、真砂まさごの一粒の可能性であろうと信じていたいんだ。

「だってー」
「だってじゃない」

 泣き言を口にしたら、ぴしゃりと跳ね除けられた。

「王妃はもう待ってんの。諦めて」
「そんな約束してないのにぃ」

 嘆きも泣き言も、イリスがぺしぺし打ち落としていく。もう少し慈悲とかないのか、慈悲とか。
 はぁとため息が出る。
 昨夜からずっとこんな調子で気もそぞろ。
 それもそのはずで、今日はイリスの母親であり、この国の王妃と面会が決まっていた。俺の知らないところで、勝手に。

『会いたいって言うし、挨拶は必要でしょ?』

 なんて、俺の予定を決めた王女様は悪びれもしない。
 わかってる。
 王妃からのお願いとあってはそう簡単に断れないことくらい。でも、娘ならどうにかこう上手いこと断れたんじゃないのかなーって希望に縋りたくなるわけで。

「ほんとに無理なん?」
「無理」

 ……まぁ、縋った結果足蹴にされているわけだけど。

「はぁ……気が重い」

 どうしてこう、最近は王様だ王妃だと、これまで関わることのなかった雲上人と顔を合わせる機会が増えているのか。いや、原因はわかりきっているんだけどね?
 恨めしくジト目を向けたけど、指を立てて決めポーズをされた。意味わかんないけどかわいいなくっそー。

  ◆ ◆ ◆

 屋敷を出るとすでに迎えの馬車が待っていて、慇懃な物腰の御者が丁寧に頭を下げた。屋敷を出て逃走……なんて手段も使えず、「ほら」とイリスに背中を押されるままに乗り込むしかなかった。
 こうなったら諦めるしかないよな。
 ゆったりと進む車内で覚悟を決めて、ならばとイリスに尋ねる。

「王妃様ってどんな人?」
「ようやく諦めた」

 子どもなんだから、みたいにやれやれとされるのがちょっとムカつく。

「そこは、いいので、教えて」
「ください」
「……ください」
「よろしい」

 なんでこうも上から目線なんだ、この王女。……王女だからか。一人で納得してしまった。普段のだぼっとした服装とは違い、イリスの今日の服装はきっちりドレスだ。
 パフスリーブやふわりとスカートが広がるような派手なものではなく、飾り気の少ない藍色のドレスだ。貴族令嬢の流行りの華美な服装を好まないイリスには似合っているけど、スカートで足を組むのはどうかと思う。白いおみ足がちらりと覗いている。

「どんなって言うと」
「言うと?」
「……ふつー?」
「人物表現としてどうなのそれ?」

 追加情報なにもないんだけど。王妃ってことしかわからないんだけど。
 失望したよ王女様、と目で訴えると、さしもの豪胆なイリスでもこれはダメだと察したのか、手を前にかざして待ったをかけてくる。

「そうじゃなくて、いやほんとに普通なのよ。王妃って言うよりは、どこにもでいる物腰が柔らかい人妻って雰囲気で」
「なんで人妻」

 一気にエッチになったんだけど。

「いいでしょ、別に。ともかく、なに。なんか、王妃じゃないのよ、あの人は」
「王妃の話を訊いたのに、王妃じゃないって結論出された俺はどうすればいいんだ」
「直接会えばいいよ」

 会う前に心構えとか、攻略の糸口とか見出したいと思っていたのに、それは暴論が過ぎないだろうか。むしろ、話を聞く前よりわからねーが増したんだけど。

「どうしてくれようこのわだかまり」
「大丈夫、もう着くから」
「喉元過ぎればじゃないのよ」

 台本も練習もなしに劇の舞台に立てと言われた気分だ。主役なんて張りたくないのに、もう出番だからと背中を押される哀れな俺。馬車から下りて見上げた城がやけに大きく見えた。

  ◆ ◆ ◆

 案内された部屋の前で小さく息を吐く。
 それを意外そうに横からイリスが眺めてくる。見世物じゃないんだけど。

「緊張してるんだ」
「するだろ」

 王妃に会うんだから。
 肯定したのに、納得できないように人差し指で自分の頬をぐりぐりしている。

「や、ね。陛下の前で王女の婚約を断るメンタル持ってるのに」
「それとこれとは状況が違うだろ」
「なにが?」
「なにがって」

 そりゃあれだ。
 あのときはまだ婚約者じゃなかったというか、俺にも断る権利はあったわけで。いまだって婚約者というわけじゃないけど、かといって初対面の子爵家の子息と王女ってわけでもない。なんだかんだ、一緒に住んでるわけだし。

 事情があって、断れなかっただけ。
 状況に流されているのは癪で、どうにかしたいと思うけど、時を重ねるごとに情が湧いて断れなくなっている自分がいる。その自覚があって、だからこそのいまの状況だ。

 半端な態度でよくないよなと思う。だからきっと、罪悪感みたいな感情があって、王妃に会うの躊躇ためらっている……ような気がする。

「……するんだもん、緊張」
「あは、そっかー」

 口に手を当てて、イリスが笑う。
 俺自身すらわかっていない感情を理解されたような、そんな態度だった。見透かされているようで恥ずかしく……なんか悔しい。
 頬肉を持ち上げると、イリスが透けそうなほど白い指を俺の襟元に伸ばしてきた。

たいが曲がってる」
「自分でやる」
「いいから」

 ね? と、むずがる子どもをあやすように微笑びしょうされては、なんも言えなくなる。普段、他人が触ることのない首回りを華奢な指が掠めていく。
 首を伸ばして、斜め上を向く。
 いまさらやめろとも言えず、でもこそばゆい感覚にじっとしていられない。

「できた」

 やけに長く感じた短い時間だった。
 どう? と、胸をぽんっと叩いてにやっとイリスの口角が上がる。首元だ。見下ろしたところで自分ではよく見えないけど、視界の端にはさっきよりは整ったたいが見えている。

「ま、及第点でしょ」
「生意気」

 素直に感謝を言えなかったのに、イリスは文句を言いつつも目を細めて楽しげだった。その表情を見ていると、さっきまであった緊張が解けていくようで、釣られて笑って――

「ふふっ、とても仲がよろしいのね?」

 うひっ!? と、頬が裂けるんじゃないかってくらい、口の端が引きつった。バクバク激しく脈打つ心臓を胸の上から触れる。だ、大丈夫だ。ちゃんとある。
 どっと全身から冷や汗が吹き出し、せいを強く実感する。

 そっと顔を向けると、わずかに開いた扉の影から楽しそうに微笑むご婦人がいた。柔らかい雰囲気を醸し出す彼女を、「あ」とイリスが呼ぶ」

「王妃」
「え」

 この人が?
 なんだ……お隣からお裾分けを持ってきてくれそうな、家庭的な雰囲気のある若々しいご婦人が?
 イリスとは似ても似つかず、動揺が動揺を呼んでいると、王妃らしいご婦人は「イリスちゃん」と腰に手を当てて言った。

「お母さんと呼びなさい」

 めっ、と指を立てるご婦人は、どう見ても王妃には見えなかった。