第3話

 夏の隙間。
 休業していたバーは久しぶりに営業を再開して、時計の長針と短針が12時で重なる頃に扉をくぐると、すでに店はささやかな賑わいを見せていた。

「……いらっしゃいませ」
「えと……いらっしゃいました」

 奥ゆかしい出迎えに、頬をかく。
 あれから1日経っていない。劇的で、静かな夜を思い出し、かすかに頬が火照る。今夜、顔を出すかどうか悩んだくらいだ。気恥ずかしさに負けてベッドに引きこもっていたかったけど、蓮さんがようやく店を開くというのだから行かないわけにもいかない。
 義務じゃないけど、行かなきゃという気持ちが突き動かして、ここにいる。ちなみに、大学は休んだ。

「ますたー。わたしはなんの音沙汰もなく休み続けたの、まだ怒ってるんですからねー?」
「申し訳ありません」

 間延びした声に呼び戻されて、蓮さんが接客に戻っていく。
 常連の女性客2人に「お詫びします」とカクテルを作り出す。今夜、訪れたお客に謝り通しだったんだろうな、と開店してからの様子が目に浮かぶ。

 休業の原因、俺にもあるんだよなぁ。
 その責任を蓮さんに押し付けているようで、罪悪感で胸が痛む。今夜は少し、多めにお金を落とそうと決める。
 入口側の席が2つ並んで開いていたので、日本人らしい距離の取り方で間を開けて座る。……座ったのだけど、なにも言わずに常連の女性客2人が自然な所作で間を埋めてきた。
 甘い香水の香りが鼻先をくすぐる。

「おひさー」
「それで、どうだったの?」

 2人の目には爛々と好奇心が輝いていた。目端口端はこれでもかとニヤニヤ曲がっていて、からかい交じりなのは見れば明らかだ。色気漂う大人の女性にたじろいでしまう。
 身を乗り出してくる夜の女性たちに、「どうって……」と言葉に詰まる。
 恋人……そう呼んでいいのか、まだわからない。

 こんなことを言えば、張本人なのにどういうことだと苦言を呈されそうだが、実際、昨日の今日で感情もなにも固まりきっていない。乾燥も焼きもしていない陶器みたいなものだ。
 深い海の底のような暗闇に満たされたバーで想いは確かめ合った。

 好きと言った。好きと言われた。
 両想いだ。これで晴れた恋人だ……と、幸せの絶頂に酔っていればいいのだけど、どうしても本当に恋人になったのか? という疑問が頭の隅っこに残っている。

 告白をして、心と体で想いを確かめ合った。でも、恋人になってください、もちろんですみたいな了承は得ていない。いやわかる。普通なら好意を送り合った時点で恋人だ。もしくは、その先。停滞も後退もあるわけなく、進展するしかないはずなんだ。
 でも、と否定が出てくるのは、相手が蓮さんだから。

 言葉にしないと不安なんて幼稚な、とも思う。じゃあ、結婚みたいにお役所を通した契約で初めて安心するのかというと、それも違う気がする。
 不安は残る。傷のように跡が残る。

 もしかしたら、蓮さんと好きでいるというのは、心配や不安が付きまとうのかもしれない。能天気に幸せと言える日は来ないのか、と想像だけで頭がくらくらする。
 でもそれは、きっと恋愛なら普通なのかもしれないと思いもする。……ただの慰めかもしれないけど。

「まぁ……上手くはいったんだと思います」

 確証はないけど、きっとそうなのだろうと結論づける。

「そうか! おめでとう!」
「おめでとー」

 祝いの言葉に「あ、ありがとうございます」と照れ混じりに感謝する。祝われること自体に照れくささを感じるが、なにより蓮さん相手が傍にいるのだから余計に恥ずかしい。
 お姉さんたちから奢られ、乾杯とグラスをぶつけ合う。

「いいなー、ますたーいいなー」
「私たちみたいな職業だと、一途な男はいないから」

 羨望を向けられた蓮さんが苦笑している。俺も似たような表情だろう。
 多くの男性に夢を見させる職業であろう彼女たちにとって、一途な恋というのは難しいのかもしれない。色が多くなればなるほど、純粋ではいられなくなっていく。

 だから、多少のやっかみもあるのだろう。からかってくるお姉さんたちから逃げるようにカクテルを呷る。
 ふと、蓮さんと目が合った気がした。

  ◆◆◆

 ガチャリ、と店の入口を施錠する音が響いた。
 閉店後、静まり返った2人きりの時間。いつもので、久しぶりの夜に少しだけ高揚する。また、この時間が戻ってきたんだという感慨があった。

 どんな話をしよう。
 久々の穏やかな時間に、頭の中で話題を探していると、不意に服の裾を引っ張られてひっくり返りそうになる。

「れ、蓮さん?」

 首を後ろに回すと、蓮さんが俺の服の裾を両手で握っていた。俯いて、彼女の顔は窺えない。

「どうか、しました?」

 なにも言ってくれない。
 高揚は動悸に変わって、不安で舌先が震えた。せめてなにか言ってほしいんだけど。弱音が顔を出していると、頭突きをするように肩におでこを押し付けられた。

 ただそれだけ。
 返事なのかもわからない。困惑ばかりが募っていく。
 なにかした?

 こういうとき、不安で自分が悪いかも、と想像するのは男だからだろうか。や、なにかしたかといえば、昨夜ここでごにょごにょしたのだけど、まさか下手だったとか思われてないよな?
 でも、終わったあとは満足そうだったし、昼間は会っていない。あとはバーくらいしか……とさっきまでの出来事を思い返して、あれか? と首を捻る。

 そういえば、バーで常連のお姉さんたちと話したのは初めてだった。
 もしかして……。
 肩越しに蓮さんを覗こうとすると、服がちぎれそうなくらい引っ張られた。見るな、ということらしい。

 たぶん正解で、それを喜んでいいのか困ればいいのか悩むところだ。
 とはいえ、無言じゃなくて、なにか言ってほしいなとも思う。言葉にしないで伝わるには、まだまだ年数が足りない。
 本当に、面倒な女に恋をした。
「好きだよ」と囁くと、服を掴む手に、また少しだけ力が入った。

fin.