第1話
酔い潰れた後悔は、まだしこりのように残っている。
その後悔をただ駄目だったと否定しきれないのは、それがきっかけになってバーのお姉さんとの距離が縮んだような気がしているからだ。
勘違いかもしれない。
ただの思い上がり。
でも、浮足立つくらいには嬉しくて、大学の友人から変に見られても気にはならなかった。
「いらっしゃいませ」
バイトが終わって、アパートで少し休む。
明日の大学の準備をして、特に身なりは念入りに整えた。
出迎えてくれるバーのお姉さんが、前よりも親しみがある気がする。
酔い潰れた日を境に、もともとあった境界線を超えたような感覚。少しだけ店員と客という間柄以外のやり取りをしたからだろうか。
その深まった親しみは、決して恋愛的な意味ではないだろうけど。
好意的なその声に、頬が緩んでしまう。
だらしない顔をしていないといいけど。
親指で緩んだ口角を真横にいーっと引き伸ばしながら、いつもの席となりつつあるバーのお姉さんの真ん前のカウンターに座る。
「ご注文は?」
「えっと……モクテルのおすすめで」
「かしこまりました」
覚えたての言葉を使う幼子みたいだなと思う。
でも、バーのお姉さんに教わった言葉で、それを使いたい、と思うのはそんな変じゃないはずだ。
……子どもっぽいと思われてないかな?
不安はあるが、バーのお姉さんは気にした素振りを見せず、注文の準備に入る。いつも意識しているのは俺ばっかりだ。世間ではこれを一人相撲と呼ぶ。悲しいね。
「お酒はよろしいのですか?」
作ってもらったモクテルをちびちびと飲んでいると、バーのお姉さんに訊かれる。
いやぁ、うん。
バーに来て、ノンアルコールのカクテルだけ飲んで帰る、というのはあまりにも場の空気を読めていなさすぎる。家に帰ってミルクでも飲んでな! と、追い出されてもおかしくない……いや、現代だとそれはおかしさしかないが、俺の頭の中ではおかしくなかった。
つーっ、と視線を横にずらす。
「……やらかしたばかりなので」
つい先日。あるいは一昨日。
飲みすぎて酔い潰れた記憶は新しく、鮮明で、早くも俺の中では黒歴史として深く刻み込まれていた。
一気飲みは危ないですよ? と、注意されていたのに、この体たらく。今夜は顔を出すのすら羞恥の極みだったが、自分の恥よりもバーのお姉さんに会いたいという熱情を優先した。
だからといって迷惑をかけたのを忘れたわけじゃなく、こうして反省の意味を込めて、アルコールはカットしている。
「ん」
悩むような声だった。悩ましいともいう。
喉を鳴らすような声に艶があって、ドキッとしてしまう。薄い唇に白い指を触れさせるのを見て、またドキリとする。
俺の心臓単純すぎないか?
呆れるけど、ずっと見ていたくなるような悩ましい表情だった。
「かしこまりました」
「?」
なにも言っていないけど。
でも、そのかしこまった微笑みが綺麗で指摘もできない。なんでこう、この人は1つ1つの所作に艶があって、魅力的なのだろうか。俺の目が、なんだ。フィルターがかかっていて、そう見えるだけ、というのはあるかもだけど、それを差し引いても可憐すぎではなかろうか。
こういうのを、最近はメロいと呼ぶと大学で聞いた。すっごくメロいです。
そんなメロいお姉さんは、注文もされていないカクテルを作り始める。グラスに氷を入れて水を注ぐ。それに蓋? をして水を捨てて……本当になにしてるんだろう。
カクテルを作っていると思ったけど、そうじゃないのだろうか?
不思議な行程を興味深く見守っていると、出てきたのはチェリーが浮かぶ赤褐色のカクテルだった。
「サービスです」
にっこり笑顔。
かわいい。けど、と喉が引きつる。
「あの、でも、この前、失敗して……」
「よろしければ、どうぞ」
「……いただきます」
日に一度のサービスカクテル。
それには多少なりとも慣れたけど、見るからにアルコール度数の高そうなカクテルを飲むのにはいまばかり抵抗があった。でも、バーのお姉さんに笑顔で勧められて断れるはずもなく、飲み過ぎないようにだけ注意しようと口をつける前に戒める。
「甘い?」
でも、苦さもある。
カクテルは全体的に甘いイメージがあったけど、こういうお酒っぽさのあるものもあるのかと少し新鮮だ。ただ、もちろん度数は高くて、喉を焼く感覚にむせそうになる。
カクテルグラスは小さいのに、これを飲み切る頃には出来上がっている自信があった。嫌な自信だ。
「美味しいです」
「ありがとうございます」
正直、お酒の味にはまだまだ慣れていないけど、営業であってもその笑顔を見れるのなら、これくらいどうってことはない。
……と、言いたかったが、
「ふふっ」
なにもしていないのに、笑いが込み上げてくるくらいには酔ってしまった。
さすがに戒めの効果もあってか酔い潰れるほどじゃないが、程よい高揚感に包まれ、体が熱い。アルコールが血流に乗って指先まで巡っているのがわかる。
微かに震える指先を見て、また笑いが込み上げてくる。
酔ってるなー。
自覚があるのは救いだろう。
ただ、立つのはちょっと厳しいかもしれない。水でも飲んで酔いを冷ますか、と思っていると、伏せていた視界、カウンターに影がかかった。
「閉店後、少し……休んでいく?」
耳元でこそっと囁かれた。
低い声。接客のときにはない、軽い口調。
耳にかかる吐息に甘さがあって、背筋がぞくりと震えた。咄嗟に耳を隠して、顔を上げたがカウンターの中にバーのお姉さんはいなかった。
隣を見ると、そこでようやく見つけて、口元に手を添えた姿勢で屈んでいた。艶のある薄い唇、バーテンダー服の上からでもわかる胸の大きさ。漂う大人の色気で、お酒以上に酔って頭がくらくらする。
「どうかな?」
からかいなのか、ただ心配しているだけなのか。
わからないけど。
気になる女性から誘われて断れるほど駆け引きに精通していなくって、ただただ声もなくこくこくと頷くことしかできなかった。