7杯目 ロゼワイン - 酔いが覚めるとき

第1話

 その日は朝日とともに目が覚めた。
 バーの店主から蓮さんのことを聞いた翌日。目覚ましをかけていたけど、自然と意識が浮上した。
 顔を洗って、朝食を食べる。

 スマホで朝のニュース番組を見て、日常の朝を送っていた。
 人間、本当に決意が固まると逆に慌てなくなるのかもしれない。そんなことを考えながら、俺はバイト先に連絡を入れた。

「急で申し訳ありません。今日は休ませてください」

 理由を訊かれたので、正直に大事な用があるためと伝えた。
 行こうと思えば行ける。休む必要なんてない。ある意味においてはズル休みとなんら変わらない。
 だから、体調を崩したとか嘘はかず、伝えることだけを伝えた。

 今日は平日。
 大学もあるが、そっちも休む。
 そっちだって出ようと思えば出られる。でも、今日だけは他のすべてを切り捨てて、身軽になりたかった。

「出る、かな」

 スマホの時刻はちょうど8時だ。
 予約時間には早いけど、遅刻するよりはいいかな。身支度を整えて、アパートの部屋を出た。

「今日はどんな風にしますか?」

 いつも通っている美容院でカットしてもらう。担当してもらっている美容師さんに事情を伝えた上で「お任せでお願いします」と伝えると、最初は驚いたものの笑みを深めて「最高の仕上がりにします」と笑顔で請け負ってくれた。
 そのあと、今度は服飾店だ。

 普段なら入らない、ちょっと背伸びをしたブランドの系列店。案内をしてくれた店員さんもスーツに身を包み、店内同様見るからに品があった。
 そうして、店を渡り歩きながら身なりを整えていく。
 たった1日のためにここまでしたのは初めてだった。以前、買ったスーツだってカジュアルな安物だってのに。

 去年までなら散財、無駄と切り捨てていただろうに、こうも人は変わるもんなんだなと自分に驚く。でも、抵抗も後悔もなく、時刻は一刻一刻と迫っていた。
 気づけば日をまたぎ、深い夜の街が目覚める時間。
 最後の1件で花屋に寄っていくと、「お久しぶりです」と明るく出迎えてくれた。

「1ヶ月ぶりくらいですか? もう来ないのかと思ってました」
「すみません、やることがあって来れませんでした」
「いえ、お気になさらず。急に来なくなる常連さんは珍しくありませんので」

 からっと爽やかに笑っているけど、なかなかに奥行きを感じさせる話だった。振られたからというのが一番ありそうだけど、お金がなくなったとか、他の人を好きになったとか、夜の街の事情は多種多様だろう。
 花屋の店員さんは心得ているとばかりに、赤い薔薇を一輪用意してくれる。

「本日も、こちらでよろしいですよね?」
「……いや」

 それもいいかな、と思ったけど、今夜は少し変化が欲しかった。

「今夜は花束でいただけますか?」

 お願いすると、一瞬きょとんとした店員さん。けど、すぐにパァッと顔が輝いて、「任せてください!」と薔薇が陳列された場所に忙しなく走り出した。

「急がなくて大丈夫ですよ」
「全力です!」

 言葉通り、店員さんは全力で薔薇の花束を作ってくれて、その手際はもはや魔法のようだった。途中、「100本ですか?」と興奮気味に訊かれたけど、プロポーズではないので12本と答えた。
 そこから幾分、けれど見るからにやる気は落ちたもの、出来上がった薔薇の花束は包装も含めて綺麗なものだった。

「頑張ってください!」

 背中を押されて、花屋を出る。

「なんだか今日は応援されてばっかりだな」

 事情を伝えたから、もしくは伝わるような言動になったからだろうけど。
 どこに行っても『応援しています』『頑張って』『上手くいくことを祈っています』などと、幸福を願われている。

「これだけ応援されて失敗したら、笑うしかないな」

 それは悲しいけれど、ここまでしたのだからと諦めもつく……のかな?
 どうだろう。
 これまで決意は何度かした。でも、結局諦めることなくずるずるとここまで来てしまった。未練がましい。でも、諦めなくてよかったことに安堵もしている。

「今夜はどうなるかな」

 重ねた決意は硬く、強くなっているのか。
 そんなことを考えながら歩いてると、バーに続く階段。その前で、誰かが立っているのが見えた。最初はお客かと思ったけど、そもそももうすぐ深夜3時だ。

 営業終了はまもなくで、待ち合わせにしては目印にはしづらい裏通りだ。
 だから、途中からなんとなくそうかもと思っていて、けど、本当に予想通りだったものだから、ちょっとだけ驚いてしまう。
 階段の前に立っていたのは蓮さんだった。

 バーテンダー服を着ていて、まだ営業中だと感じさせる姿だった。
 看板を下げに来たと思ったけど、その挙動は周囲を見渡している。誰かを探すような、待っているような、そんな素振りだった。
 それがなんだか嬉しくて。

 勘違いかもしれないと思っても、頬が綻ぶのを止められなかった。
 道に沿って真っ直ぐ彼女の元へ歩く。すると、蓮さんもこちらに気づいたようで、暗がりの中でもくしゃりと表情が歪むのがわかった。
 潤んだ瞳を見て満ち足りてしまうのだから、俺はとんでもない悪党だった。

「こんばんは」
「……今夜も、遅かったですね」

 ちくり、と棘で刺された気がした。
 蓮さんの恩人であるバーの店主を探している間は会いに来れなかった。バーの営業時間は、どうしたって蓮さんのバーと被る。早く見つけないといけない、徒労感もあった。
 なにより、探し出さないと進展しないと思っていたから、足が遠のいていたんだ。

「行かないといけないところがあったので」
「もう来ないのかと思ってた」

 ズルい使い分けだ。
 バーテンダーとプライベート。
 どっちの顔も見せてくるなんて、ほんとにズルい。

 けど、責めはしない。たぶん、蓮さんからすれば今夜の俺の方がもっとズルいから。
 薔薇の花束を掲げる。

「受け取ってください」
「……今夜は花束なんですね」

 長いまつ毛を伏せる。
 蓮さんの方が少し身長が高いから、揺れ動く瞳は屈まなくても見える。その事実に小さく悔しさを覚えながら、それでも俺は笑顔で「蓮さん」とこの人を呼ぶ。
 顔を上げた彼女に、俺は伝える。

「――俺とデートしてくれませんか?」

 深い青色の瞳が小さく円を描いた。宇宙そらから日の当たらない地球を見たような、そんな丸さだった。
 意表を突かれた。
 そんな感情を称えながら、呆然と瞳を瞬かせた蓮さんは、いとけない仕草でこくんと首を縦に振ってくれた。