第3話
「帰れ」
翌夜、蓮さんの恩人と思われるバーに改めて赴くと、開口一番、来店を拒否された。扉を開けて、顔を見るなりだ。半端に入った体勢で、思わず『えー』と内心漏らしてしまった。
この人、本当に蓮さんの師匠なのか?
あまりにも性格が真逆すぎる。というか、客商売としてどうなんだその態度。
俺が蓮さんのことを探っていると知っているからかもしれないけど、拒絶の仕方があまりにも攻撃的で、常に優しい蓮さんと知り合いとは思えなかった。
でも、きっとこの人なんだ。
蓮さんと違って、心の内を隠すのは苦手なんだろう。感情的で、だからこそわかりやすくもあった。知っている人間の反応なのは間違いない。
「少しでも話を」
「聞かない」
梨の礫とはこういうことだろうか。
つけ入る隙なんてなく、真っ直ぐに睨みつけてくる。これでは、蓮さんの話を訊くどころじゃない。諦めて、巻き戻すように扉を締めていく。
「また明日も来ます」
「来るな」
辛辣な見送りの言葉だった。
「辛い」
ぽろ、と泣きそうになるけど、ここまでの道のりを思えばまだ言い合えるだけマシだった。暗中模索よりずっといい。
それからは、宣言通り通っては追い返される夜が続いた。
「また来たのか」
「二度と来るな」
「なにも話すことはない」
「店の敷居を跨ぐな」
などなど、話すどころじゃない拒絶の嵐。せめて、こちらの事情を聞いて、話さない、という結論に至ったのであれば、俺としても店主の言葉に従うのは吝かじゃないのだけど、会話になっていてすらいないのだから、諦めもつき難い。
「師弟揃って、諦めさせてくれないな」
俺の納得の仕方に問題があるのかもしれないけど。
恋愛って、どこで区切りをつければいいのか。ドラマやアニメなんかでは、振られておしまい。泣いて、気持ちを新たにするとわかりやすいのが多いけど、現実ではそういう明確な区切りがないことの方が多いのだろうか。
「初恋だもんなぁ」
わかんないことだらけだ。
遅い思春期、青春に惑っていると、ぽつりと頬で雫が跳ねた。空を仰げば、瞳に落ちて咄嗟に瞼を閉じる。ぽつり、ぽつりと雨が降り出して、土の匂いが鼻を掠めていく。
「あー……どうしよ」
今日はバイトがなかったから、大学から直行で店まで来ていた。空は灰色だけど、時間的には夕暮れだ。バーが開くのはまだ先で、軒下なんて気の利いたものはない。
まだ梅雨だけど、朝から快晴だったから油断していた。
本降りというほどじゃないけど、髪がしっとり濡れていくのが伝わってくる。おでこに張りつく前髪を指で払って、しとしとと降る雨を見つめる。
「にわか雨だといいけど」
本降りになったら、さすがに移動するしかなくなる。
傘を差す、鞄を頭に乗せて走る。
右に左に流れる通行人を、水族館の水槽を眺めるようにぼーっと見ていると、そっと影がかかって、雨が遮られた。
「こんにちは」
「……店先で濡れられても困るんだけど」
そうだろう。
傘を差した店主が、ビニール傘を差し出してきていた。同じ傘を共有なんて甘いものではなく、どちらかと言えば捨て犬に傘を貸す不良のほっこりシチュエーションだ。
不機嫌そうに眉根を寄せて見上げてくる店主は、しばらく俺を見つめていたけど、最終的には盛大なため息を吐いた。
「中に入って」
「いいんですか?」
「よくない」
言葉通り、見るからに不本意そうな顔だった。
「でも、蓮の知り合いかもしれない奴に、風邪を引かせるわけにもいかないだろ」
そう言い訳のように口にして、彼女は店の鍵を開ける。
初めてしっかり見た店内は、蓮さんのバーとは違って年季があった。
バーの大人な雰囲気というのは共通しているけど、壁の傷みや染み、角が欠けたカウンター。長年営んでいるというのが、端々から感じ取れた。
蓮さんのバーにはないテーブル席もある。どこに座るべきか、店内に視線を迷わせていると、奥から出てきた店主がタオルを投げてきた。
「酒が飲めない、とは言わないな?」
「20歳です」
「ガキか」
口が悪い。そして、やっぱりどこに行っても俺は子ども扱いなのか。
童顔ではないはずなんだけど。
渡されたタオルで髪を撫でながら、なにやら作り始めている店主の前、カウンター席に座る。荒々しくシェーカーを振っている。同じ動作のはずなのに、蓮さんとはずいぶん受ける印象が違った。
蓮さんは動作の端々に丁寧さがあった。
動きの大きさか、この人には豪快さがある。でも、迷いなく、淀みなく、洗練されているのは一緒で、性格が出る部分はあれど、その根本は同じなんだなと思わせた。
「ギムレットだ」
切れのある動作で、カクテルをカウンターに乗せた。
透明感のある、かすかに乳白色のカクテル。
確か、蓮さんのバーにもあったはずだ。ただ、飲んだことはない。どんな味だろうか。訊こうにも、まずは飲めと言わんばかりに睨みつけられているので、ぐいっと呷る。
「……っ、きっつ」
ライムなんだろうけど、とにかく酸味が強い。直接アルコールを飲んでいるくらい度数も高く、舌と喉、両方を焼くように攻めてくる。これまでも、度数の高いカクテルは飲んできたけど、こうも鋭利さを覚えたのは初めてだった。甘さが一雫もないせいかもしれない。カクテルに性格が出るとは思わないけど、攻撃的な店主が出すならこうだろうと思わせる味だった。
けほっ、とむせると「やっぱりガキだ」と店主が零す。否定したいが、カクテル一杯でこの体たらくでは、否定しようがない。
「それで、蓮とはどんな関係?」
喉の調子を整えていると、不意に尋ねられた。
「あ、あー……んんっ。れ、蓮さんと、ですか?」
「まさか話したこともない、とは言わないだろうね?」
言わないけど。
いつの間にか立場が逆転している。俺が訊きに来たんだけど、と思わなくもないが、どうにか話をするところまで漕ぎ着けたんだ。信用してもらうにも、こちらから話すのが礼儀だろう。
「蓮さんとは、その……バーの店主とお客?」
「ストーカーか」
「早い早いっ」
判断が早すぎる。
蓮さんについて探っている、という時点で店主の頭の中に俺がそういう行為をしているかもしれない、という疑惑があったんだろう。俺自身ですら、ちょっと危ういなと思っていたんだ。疑われても仕方がない。
なので、やっぱり説明は必須で、ここでちゃんと伝えられるかがこの先の決め手になる。
「そういうのとは違くて……違くて」
「自分に言い聞かせてない?」
そうだけど、指摘しないでほしい。
「蓮さんとは仲よくしてもらってて」
「一方的な好意じゃないって証拠は? 待ち受けは盗撮じゃないの?」
「ちゃんと許可もらって撮りました!」
そこから疑われたのか。道理で攻撃的なわけだよ。
残ったカクテルで唇を濡らす。強いアルコールで、羞恥を麻痺させる。
「閉店後に、一緒に飲むこともあって……写真はそのときに撮ったんですよ」
「そういえば私服だったか」
くいっ、と店主の人差し指が上下に動く。見せろってことか。スマホを出して電源をつけて、黒いオフショルダー姿の蓮さんがカクテルを飲んでいる待ち受けが表示される。
それをカウンター越しに見下ろした店主が、ぼそっと呟く。
「小中学生みたい」
「女々しくてすみませんねぇっ!」
いいじゃん、好きな人の写真を待ち受けにしたって!
蓮さんにはちゃんと許可を取ったし(待ち受けにするは言ってない)、会えないときも顔が見れるっていうのは……嬉しいから。
中学生みたいな恋愛していると指摘されたようで、頬が熱くなる。頭から倒れ込むと、カウンターの冷たさが心地よい。
「でも、それだけじゃね。ただの迷惑客と区別はつかないよ」
「他って言われても」
なんだろう。名前で呼び合ってるとか? ……それはそれで口にするのは恥ずかしいな。
「肉体関係でもあれば確定的だが、あの子はそんなに軽くないからね」
「………………」
まさかね、と苦笑して見てくる店主からさっと目を逸らす。まさかまさかもまさかで、だからここまで来ることになりました、なんて言えるわけがない。
ただ、沈黙がなによりも雄弁だったようで、なにやら長く息を吐く音がした。羞恥と緊張で怖々顔を上げると、店主の顔はこれでもなってくらい綺麗な笑顔だった。
だというのに、目元は暗い影に覆われ、笑顔とは対照的な印象を抱かせる。
「指出せ、詰めてやる」
「堅気なんです!」
ギラリ、と恐ろしく光る包丁を持ち出され、わけのわからない言い訳が口を出た。その目が本気に見えて、椅子から転げ落ちそうなくらい上体を仰け反らせる。
しばらく包丁を掲げて怪しく笑っていた店主だったけど、小さく舌打ちをすると代わりにタバコを取り出した。無骨な銀のライターで火をつけて、煙を吹かす。
「いいんですか、店内で吸って」
「吸わずにいられるか」
やってられないとばかりに、店主は煙を吸う。
上った血を下げるように肺に煙を送っていた店主は、少しの間精神を落ち着けるように黙っていた。俺も動揺した心を落ち着けようと、カクテルを飲みきった。
少しはお酒に慣れたつもりだったけど、やっぱり弱いな。
体が火照る。目にまでお酒が回ったように、視界がぼんやりする。さーっと聞こえる雨音。静けさのせいか、意識が遠のいていき……頬を叩く。
ここで、蓮さんのバーのときのような失敗をするわけにはいかない。パチパチ頬を叩いて、どうにか意識を保とうとしていると、店主が重く口を開いた。
「蓮はこのことを知ってるの?」
「……いえ」
「だろうね、じゃなきゃ本人が話す」
唇から吸い口を離し、ふーっと煙を吐き出す。
「なにを聞きたいのか知らないけど、あんたが蓮とどういう関係であれ、本人の知らないところで話すわけにはいかない。バーテンダーってのは、客の秘密を守るものだからね」
「……です、ね」
わかっていた答えではあった。
だから、落胆は……大きくないとは言えないけど、それでもしょうがないという気持ちにはなる。ようやく見つけた相手だったけど、無理強いをするわけにはいかなかった。
会計だけ済ませて、店を出よう。
「どうして蓮のことを知りたいんだ?」
「え」
諦めたところで訊かれて、喉が驚きの声を上げた。
睨むのではなく、店主が真っ直ぐ見つめてくる。真意を問い質すような強い視線に小さく唾を飲み込んで、誰に話すこともなかった行動原理を笑って零す。
「――好きだから」
単純明快。
複雑さなんてなく、これだから幼稚だと言われてしまうのかもしれない。でも、俺にとってはそれだけで十分で、付随する感情や理由は枝葉でしかないんだ。
「好きだから……ね。真っ直ぐすぎて、あぁ、確かに。あの子が逃げそうだ」
店主が携帯灰皿を取り出して、吸いかけのタバコの火を消して放り込む。
「話してあげる。蓮のこと」
「いいんですか? その……バーテンダーは」
「秘密を漏らさないって?」
戸惑いつつこくりと頷くと、確かにと店主は言う。
「間違っていないが、蓮はバイトで、それも元がつく。客じゃないから、秘密厳守は適用外なんだよ」
これが言い訳だっていうのは、バーテンダーじゃない俺にだってわかる。
その信念を曲げた理由は、俺のためじゃなくて、蓮さんのためだってことも。
自分から探して聞きに来て、罪悪感を覚えるなんて屑以下。
いまの俺にできるのは、感謝を伝えて、ただ静かに彼女の話に耳を傾けることだけだった。