第3話
これまで、身だしなみを整えるのは最低限だった。
おしゃれに目覚める年頃は過ぎてしまったが、大学生ともなれば最後の青春とばかりにはっちゃけるものだ。周りを見れば金髪や茶色なんて当たり前で、銀とか紫とかすげーと感心する髪色にしている人までいる。
俺はそういうのとは無縁で、鬱陶しくない程度に短く切っているだけだ。
それはいまも変わらないけど、鏡の前に立つ時間は長くなった。
「寝癖は……ないな」
アパートの洗面所で、前髪をちょいちょいっと弄る。
前なら寝癖で1本2本跳ねていようが気にしていなかったけど、いまはその程度でも直したくなる。大して変わりもしないのに、角度を変えて鏡を見る。
「染める?」
いきなり変えてどう思われるだろうか。
大学の友人の反応もだけど、なによりバーのお姉さんの反応が一番気になる。あの人の好みから外れるのであれば意味はないし、色気づいてるなんて言われようものなら立ち直れなくなりそうだ。
「最低限、最低限」
言い聞かせて、櫛で髪を梳かす。
いまのままがいい……と言われる可能性は限りなく低いのはわかってるけど、変に暴走して明後日の方向に爆走するよりもいいだろう。行動するのは、せめてあの人の好みを知ってからでも遅くない……はずだ。
「不安ばっかだな」
鏡に映る男で、それでもどこか楽しそうに苦笑していた。
◆◆◆
最近、講義に身が入らない。
大学を最後の学生生活。遊ぶ期間。そう捉えている生徒は少なくないから、それが珍しいというわけでもない。
でも、俺は(それなりに)真面目に受けていた上で、だ。
理由はもちろんバーのお姉さんで。
今日はバーに行けるかなー、とか、どんな話をしようかなー、とかそんなことばかり考えている。否定しておいてなんだけど、サークルで飲み会してる連中と大差ない気もしてきた。
心の中は常にバーのお姉さんがいる。
頭も同じで、前で講師が需要がなんたら供給がなんたらと説明しているが、まったくといっていいほど入ってこない。右耳から左耳に抜けるどころか、両耳を蓋したみたいな状態だ。
ざわり、ざわりと人の声がするのはわかる。そんな程度。
よくないのはわかっている。でも、駄目だと思ったところで集中できるかは別問題だった。
「―――お」
正しさで世界は回らない。
世の中にはどうしたって誤ることがある。
「はる――」
いまの俺を正当化するわけじゃないけど、それでもいまだけは、と上の空に許しを求める。
「春直白!」
「うぇ?」
急に呼びかけられ意識が浮上する。
顔を上げれば、そこには厳しい顔をした講師が立っていて、いつの間にか壇上からはいなくなっていた。
ぱちくりと瞬きをする。
「瞬間移動でもしました?」
「お前が講義を聞いていないのはわかった。今日は欠席扱いでいいな?」
「すみません」
出席を人質に取られては謝るしかなかった。
横暴だー、と文句の1つでも言おうものなら、本気で欠席にすると眉間の皺が物語っていた。
「寝ていたわけじゃないな?」
「起きてました」
そっと目を逸らす。
「……現実に目を向けてなかっただけで」
「90分頭の中で魔王退治か? そりゃご苦労さまだな勇者様」
皮肉がすぎる。
だいたい、経済学部の講師なら、もう少し適した比喩はなかったのだろうか。
「なんでしょうか…………先生」
「学部担当の講師の名前くらい覚えなさい」
せめて態度には出さないように、と注意される。
そう言われても。
講師なんて講義ごとに変わる。確かに必修科目となると、顔を合わせる機会も多いけど、高校までの“担任の先生”という近さはない。個人でお世話になっているということもなく、一々覚えていられない。そもそも自己紹介されたか?
どうだったか。首を捻っていると、露骨にため息を吐かれた。
「社会に出れば一度会った人の顔と名前を覚えておく必要も出てくるんだ。その練習と思って、いまのうちに講師の名前くらい覚えなさい」
「そうですね」
納得できる話だ。
必要に迫られたら覚えますと言ったところで、いまの俺では信用度は0だ。
講師の名前くらいなら……と、思い出そうとしたところでハッとなる。
そういえば、バーのお姉さんの名前はなんだ?
なにやら自己紹介を始めている講師を置いて、真剣に記憶を遡る。けど、どれだけ思い出してもあの人の名前は出てこず、そもそも名前を訊いた覚えも、名乗った覚えもないことに気づいた。
距離が近くなって浮かれて、意識してほしいなんて次に進もうとしている場合じゃない。
足元が疎かだった。
閉店後、2人で話すようになったというのに、名前すら知らないとかどうかと思う。それが、好きな人相手となれば、なおさらだ。
「俺は……馬鹿だっ」
「お、おう。そこまで反省しなくていいぞ? 次から気をつけなさい」
でも、いまさらどうやって名前を訊けばいいのか。『え、知らなかったのですか?』と真顔で驚かれたら、その瞬間に心臓が止まる可能性まである。
「それじゃあ、出し忘れていたレポートの提出は明日までだからな。今度は忘れるなよ?」
「はい」
酔いに任せて、でもそれで失敗したら…………レポート?
なんの話だと顔を上げても、名前も知らない講師は教室を出るところだった。
「レポート?」
そういえば、先月末くらいにそんなことを言われていたような、いないような。
講師の名前は思い出せないが、嫌なことは鮮明に蘇る。
「明日まで、レポート」
ここ最近はバーに入り浸りで、アパートにいてもバーのお姉さんのことばかり。初めて買ったファッション誌を開くことはあっても、レポートなんて一切手をつけていない。
「…………バー、行けそうにないな」
机に頭を打ち付ける。
これからの徹夜作業より、その事実が俺の視界を暗く、意識を遠くさせた。