第3話

 あの運命の夜から、俺は死んでいた。心が。
 大学が始まっても心は灰になっていて、あれから1週間近くになっているけど、立ち直れていなかった。

「……あ、終わってる」

 正直、大学にどうやって来たか覚えていない。歩いた記憶もない。電車に乗った記憶もない。
 俺の記憶はまだホテルの朝で留まっていて、蓮さんの寂しげな微笑みと、突きつけられた拒絶の言葉を忘れられないでいた。
 シラバスが手元にあるので、今日はその説明をされていたんだろう。

 ちゃんと考えないとな。
 そう思って、シラバスを手に取ると、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。いつの間に、外に出たんだろう。記憶が断絶している。空を仰いだつもりだったけど、そこは変わらず講義室の天井だった。

「あれ?」

 では、どこから雨が降っているんだ。
 下を向くとやっぱりシトラスを雫が濡らしていた。その跡を伝うように指で顔に触れると、頬が濡れていた。目尻に触れると、大粒の涙が爪に乗った。

「あぁ、なんだ」

 泣いてたのか、俺。
 自覚すると、ぼろぼろと止まらなくなって、あとからあとからあふれてくる。ようやく振られたんだ、と理解して、心が涙になって零れているみたいだった。

 喉が震える。小さい嗚咽が漏れる。
 すすり泣いて、シトラスがぐしゃぐしゃになるのも構わず、手を強く握った。

「……失恋って、こんなに辛いんだなぁ」

 失恋を苦いと言う人がいるけど、俺には無味に感じた。吐き気のような気持ち悪さだけだが、胃ではなく心から込み上げてくるような感覚があった。
 泣いて、泣いて。
 飲み終わったカクテルグラスのように、心が空っぽになるまで涙を流し続けた。

 人間ってこんなに涙を流せるんだって思えるくらい、シトラスは濡れてしわくちゃだ。感情も、涙も、全部出し切ったあとにそれを見て、なんだか笑えてくる。

「……誰もいなくてよかった」

 鼻をすする。
 目元をこすると、腫れてるように痛くて、ひっどい顔してるんだなって鏡がなくてもわかった。やけっぱちのようだけど、開放感があって、背もたれに寄りかかる。

 首を後ろに倒して見上げた講義室の天井は、煌々と人工的な光が輝いていた。

「諦める、か」

 それも一つの選択、というか正しい道なんだろう。
 そりゃそうだ。告白を断られたんだから。なおも縋るのは女々しいだけ。迷惑な男にだけはなりたくなかった。

「でも」

 俺がバーで好きだと伝えたときの蓮さんは、嬉しそうに見えた。
 そうであったほしいという願望かもしれないけど、でもそれなら、ホテルに誘われて体を重ねるなんてことはなかったはずだ。

 瞼を閉じる。
 閉じた目を突き抜けて、光が差し込んでくる。
 朝陽を照らされながら、微笑んだ蓮さんを見て俺は――失恋とは違う感情で、胸を締めつけられたんだ。

「よしっ」

 がっ、蹴るように席を立つ。
 全部全部吐き出して、それでも最後に残った心を抱えたまま、講義室から一歩踏み出す。