第4話

 ぼーっと見つめていると、「まだ酔いが覚めないのかな?」と心配そうにされて、ハッと我に返った。
 まさか、見惚れていたなんて言えない。

「いえ、その……仕事と雰囲気が違うのに、ちょっと、驚いて」

 本音半分、言い訳半分。
 あたふたとしてどうにか口にすると、あぁ、とバーのお姉さんは納得したように自分の格好を見下ろした。

「営業時間外だからね」

 顔を上げて、バーのお姉さんが苦笑する。

「この口調は不快かな? だったら直すよ」
「いえ……! そんな全然!」

 不快どころか、なんか、なんかすっごくいい……!
 という、自分でもやや気持ち悪く思う感情は口にはできない。
 代わりに精一杯、頭を左右に振って意思を伝えた。

「……っ、~~~~っ!?」

 そのせいで、二日酔いで痛かった頭が余計にガンガン響いて、ぬぅぉぉっ、と涙目で呻くことになった。
 馬鹿なのか、俺は。いや、馬鹿だった。じゃなきゃ、こんな状況にはなってない。

「無理はしないようにね」
「……はぃ」

 弱々しく頷くのがやっとだった。
 しょぼくれていると、カウンターの中に入ったバーのお姉さんが、なにやらやり始める。カップを取り出して……まさか、朝からカクテルではないよな?

 二日酔いには迎え酒! とか笑顔で差し出されたら、断れる自信はなかった。また吐くことになっても、バーのお姉さんの好意を無下にするなんてできないから……!

「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」

 わざわざカウンターを回り込んで渡してくれたのは、白いマグカップ。戦々恐々としていたけど、中身は湯気が出ている透明な飲み物だった。
 微笑んで隣に座るバーのお姉さん。これまでにない距離感にドギマギしながら、ちろりと舐めるように飲んでみる。

「甘い?」

 なんだろう。
 白湯っぽいけど……はちみつ、か。
 舌で転がしながらちびちび飲む。それを見て、バーのお姉さんも自分の黒いマグカップに口をつけていた。

 俺はほっと、息を吐く。
 ようやく少し、気分が落ち着いてきた。体調も、心も。
 半分ほど中身が残っているマグカップをカウンターに置く。

「すみません、とんだご迷惑をかけてしまって」
「気にしないでいいよ」

 バーのお姉さんが柔らかく笑う。

「本当は起こして、タクシーに乗せるべきだったんだけど、ついそのまま寝かせてしまった。私のわがままだね、ごめんね」

 俺は膝の上で手をぎゅっと握る。
 逆に謝らせてしまって、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。そんなわけないのに、バーのお姉さんは責任を持っていこうとする。

 悔しい。
 責任すら取れない自分が。
 でも、ここで反論しても、それはバーのお姉さんの優しさに泥を塗るだけだ。あなたは悪くない、と押し付けるのはエゴでしかない。

 だからただ黙って、初めてのお酒の失敗として受け止め、教訓にするしかなかった。
 ……いや、初めてじゃないけど。クリスマスに吐いたけどっ。

「このあと、大学はあるの?」

 活かせていない失敗に、また落ち込みそうになっていると、バーのお姉さんがそんなことを尋ねてきた。
 ……大学?
 恐る恐る左腕を持ち上げる。腕時計はちょうど7時を過ぎたところだった。
 今日は平日で、もちろん講義はある。

 アパートに帰る余裕は……ないけど、ここから大学に直行するなら、余裕は生まれる。頭痛と気持ち悪さを抱えて、講師の念仏のような講義を受けていられるかは別だが。
 ひとまず、バーのお姉さんの質問には肯定しておく。

「あります」
「行けるかな?」
「……行き…………ます」
「大丈夫?」

 再三の心配。
 当然、大丈夫ではなく、いまだって鈍い頭痛がある。喉からなにか酸っぱい味が上ってくるし、これがただの飲み会のあとだったら絶対に休んでいた。

 でも、気にさせるよな。
 それはよくない。ここまで面倒をかけて、俺が出てったあとも気遣わせるなんて、そんなことしたら男以下だ。
 二日酔いで死にそうであろうと、本当に死ぬわけではない。
 なら、「平気です」と笑顔で気丈に振る舞うのが男の意地というものだ。

「…………そっか」

 バーのお姉さんが口元を微かに綻ばせて、頭を傾けた。黒髪がさらりと彼女の肩を撫でる。
 コトっと黒いマグカップを持ったまま、バーのお姉さんは立ち上がる。
 そのまままた、カウンターの中に引っ込むと、奥から火を付ける音がした。

 料理?
 不思議に思っていると、しばらくしてバーのお姉さんが戻ってきた。また、正面に座り直して、黒いマグカップを今度は俺の前に置いた。

「インスタントで悪いけど」

 小さいわかめやネギが浮いたお味噌汁だった。
 バーにお味噌汁? なんて疑問は、差し出されたマグカップの色を見て、すぐ湯気のように消えてしまった。
 俺のは白。まだカウンターにある。

 さっきまでバーのお姉さんが使っていたのは黒で、カウンターにはお味噌汁が入った黒いマグカップが1つ……。
 そういう……こと?
 や、でもそうだとしても洗ってるだろうし、でもでもさっきまで口をつけていてぇ?

 目がぐるぐるして痛い。
 つい、バーのお姉さんの唇に目が吸い寄せられる。濡れた薄い唇。紅を塗っているだろう艶のある鮮やかさ、その唇が小さく動いてドキリとした。

「どうぞ」
「あり、がと、ござい、ます」

 舌が上ずる。
 喉がつりそうになる。
 ほとんど無意識にマグカップに口をつけようと持ち上げて。
 そのふちに彼女の唇と同じ色があった気がして、ごくり、と味噌汁を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。

  ◆◆◆

「――いってらっしゃい」

 店の前、階段を上がったところでバーのお姉さんに見送られる。
 朝日のせいか、それとも、シチュエーションの尊さのせいか。
 微笑んで手を振ってくれるバーのお姉さんがやけに眩しくって、目を細めてしまう。

「行ってきます」

 無性に恥ずかしくて、顔の横で小さく手を振り返すのがやっとだった。
 そのまま裏通りのひび割れた路面を確かめるようにゆっくり歩いて、何度も振り返る。そのたびに、まだバーのお姉さんが手を振って見送ってくれるのを見つけて嬉しくなって、胸がいっぱいになる。

 迎え酒なんてしてないのに、酔った直後のような高揚感があった。

「……行ってきます」

 裏通りを曲がるとき、最後にまた手を振る。
 戻って確かめたくなる足をどうにか前に進めて、 大学への道を歩く。

 
 そのあと、大学に着くと、同じ講義を受けている友人から「今日、面接でもあるの?」と訝しまれた。
 なんのこっちゃと思ったが、そういえばまだスーツだったのを思い出す。
 着替えるの忘れてた……。
「まぁ、うん」と、曖昧に答えるのがせいぜいで、何食わぬ顔で席に着いたが、顔がちょっと熱かった。