第1話
親密さを表す数値はない。
それでも、会う回数を重ねることは、一つの指標だと思う。
その日は朝から雨が降っていた。アパートのある街も、バーがある街も。どこも地面は濡れて、アスファルトを踏むとぴしゃりと水たまりが跳ねる。
小雨だから傘はいいかな、と家を出たけど、髪がしっとりしていくものだから、結局折りたたみ傘を開いてしまった。
「乾かすの面倒だな」
そんなことを呟きながら、バーの扉を押した。
「今日はよく飲みますね?」
「……そうかな?」
閉店後、バーのお姉さん……蓮さんとサシで飲むようになって何回目だったろうか。2月からで、いまは3月も終わりだ。雪も降った2月とは地続きとは思えないほど暖かくなっている。
最低でも週に3回は来ているから、10回は超えている計算だ。……行き過ぎでは? と、自分でも過剰な入れ込みに思うところはあるけど、バイトに明け暮れても訪れたい場所になっていた。
それだけの回数を重ねているけど、この人がこうもお酒を飲むところは見たことがなかった。カクテルを作っては飲んで、カウンターには開いたグラスが大小並んでいる。
いつもは1杯かそこらなのに。そうかな? なんて疑問を挟む余地もない。
「…………春だからかな」
春愁と言いたいのか、カウンター内に小さく置かれたカレンダーを蓮さんは見つめている。
3月の終わり。4月の始まり。
出会いと別れ。人が思い悩む季節ではあるけど、バーテンダーでもそうなのだろうか。
普段以上に赤い、憂いを帯びた横顔は絵画のように絵になるけど、見た目や雰囲気がダウナー寄りなせいか、そんな顔をされると不安になってしまう。
なにか、どうにか元気づけたい。
そう思うけど、面白い話をパッと思いつけるほどユーモアに富んでいない。興味はなくても、どこかのサークルにでも入って、日常会話を鍛えるべきだったか。
「……昔、バーで働いてたんだ」
話題振りに悩んでいると、蓮さんがぽつりとひとりごとのように話し始めた。その事実にやたら驚いてしまう。
自分語りなんて珍しい……というか、初めてか?
バーテンダーとして、この人はいつも訊く側だった。肯定も否定もせず、ただ相手の話に耳を傾ける。それがどれほどストレス社会に生きる人たちの助けになるのか、俺は身を持って知っている。
でも、立場が逆になることなんてなかった。
いつだって蓮さんは語らない。
だから、俺の内心は流れ星がこつんと当たったように驚きに満ちていたけど、それを表に出すことだけはしなかった。
蓮さんが自分のことを話してくれる。
その嬉しさもあるけど、なにより俺も彼女の優しい聞き役になりたかった。
「アルバイトで入ってね。それまで、飲食店でも働いていたから、すぐに慣れたよ。夜のバイトだから高級で、でも、居酒屋みたいに騒がしいお客はいなかった。それまで働いた中で一番、居心地がよかったなぁ」
傾けたグラスの中で、カラン、と氷がぶつかる音がした。
「そのときは働くの必死で、先のことなんて考えてなかったけど……そこで働いていたバーテンダーの人が格好よくて、生き様、かな? うん。一国一城の主で、一人で生きていくって姿が……格好よかったんだ。私もあんな人になりたいって、一緒にいるうちにそう思うようになってた」
郷愁と、好意が蓮さんの瞳で揺れていた。
その語り口があまりにも親しげで、格好いい、という褒め言葉に聞き役に徹していた耳がぴくりと動いた。
まさか……いやいや、そんなことは。
喉が鳴る。ありえなくはない。だって、バーテンダーって男の方が多いイメージあるし。
でも、このタイミングで訊くのはどうなんだ。どれだけ不安だろうと、いまは聞き役に徹するべきシチュエーションだろう。蓮さんの物思いに耽る姿。それが余計に心の動揺を燃え上がらせて、つい不安が口を突いてしまう。
「その人は……男性、ですか?」
言ってから、あ、と声が出る。やってしまった、という心配の声だ。
すぐに「忘れてくださいっ」と言って、下唇を強く噛む。羞恥の海に溺れる。
なにを訊いているんだ、俺は。
無意識に出た顔も知らない人への嫉妬に、顔がこれ以上ないほど焼ける。店を飛び出さなかったのが奇跡くらいの恥ずかしさだった。
「違うよ」
からかいもなく、凪いだ夜の海のような静かな答えだった。
冷たい海風が頬を撫でて冷ましてくれる。だから、いまだに羞恥は胸中を熱くしているのに、簡単に蓮さんの顔を見ることができた。
「……私にとって、お母さんみたいな恩人」
そう語る蓮さんの横顔は、母親への親しみがあって、でも、どこか寂しそうにも見えた。
胸がぎゅっと締めつけられる。
両手で押さえつけたように、決意が強く、固められた気がした。