2杯目 チョコレート・ミルク - 初恋に深く酔う

第1話

 休みのあとの大学は億劫だ。
 それも、年明けとなればなおさらだ。実際、大学の授業が終わった講義室は、やっと解放されたとああちこちから気の緩んだ声が聞こえてくる。

「……よし」

 ようやく、という解放感は一緒でも、気持ちはまるで違った。
 むしろ、疲労感はなく、いまからやる気に満ちていた。大学の友人から「どうかした?」と訊かれたが、なんでもないと言って足早に講義室を出る。

 大事な物が入った紙袋は忘れないように、手持ちをぎゅっと握る。
 大学を出ると、外は暗くなっていた。都会の店は眩しいくらいに明るいが、空はくすんだ都会の夜闇に覆われていた。

「時間は……まだあるな」

 開店時間まで2時間くらい。
 去年のクリスマスからこのときをずっと待っていた。その間も行こうと思えば行けたが、大学のある駅からアパートのある駅までは数十駅もある。

 わざわざバーに行くためだけに来るのも、というのと、最低限、行く理由は欲しかった。
 そのくせ、ようやくだと気持ちは急いているのだから、感情をコントロールできていないのが自分でもわかった。

 逸る心を落ち着けるためにも、時間があるのはよかった。
 それに、準備もしたい。

「ネカフェはあっちか」

 目星は付けてある。
 バーの近くにあるネカフェ。途中、裏通りを取るので、開店前のバーが目に留まる。階段の前に看板はない。開店前なのは明らかだった。

 でも、いるのかな。
 バーのお姉さんに思いを馳せて、胸にあの日の熱が蘇る。

「いかんいかん」

 今日はそういうのじゃなくって。
 前回、奢ってもらったお礼で、話を聞いてくれた感謝を伝えるだけだ。そういうんじゃ、そういうんじゃ……あるけど、それを理由に行くのは、なんというかまだ早い……と思う。

 考えている時点で手遅れなんだろうけど。
 隠しようのない心の有り様から目を逸らしつつ、バーからほど近いネカフェに入る。初めて利用するので、最初の会員登録で手こずったが、まだ時間に余裕はある。

 鍵付きの個室に入って、ようやく一息……とはいかず、紙袋から今日のために用意したスーツ一式を引っ張り出す。

「キチッとするべきだよ……な?」

 バーは格式高い。そんなイメージがあった。
 前回は開店前で、バーのお姉さんから誘われて入ったから意識なんてしてなかった。それでも、パーカーにジーンズというのが、バーに適していない、というのはわかる。

 浮くのは嫌だし、バーのお姉さんに迷惑をかけるのはもっと嫌だ。
 なので、とりあえずと普段使っている安めの服飾店でカジュアルスーツを買ってみたが、変じゃなかろうか。

「普段、着ないからなぁ」

 心配だ。
 残念ながら部屋に鏡がなかったので、ざっと着替えたあと、お手洗いで身だしなみを確認した。そう……変でもない、はず。高校のときは面倒だと思っていたけど、制服がネクタイだったのをいまになって感謝する。

 人生、なにが役に立つかわからないものだ。
 そうして、部屋に戻ってそわそわ。コーヒーを飲みながら、漫画を読んでみたり、とにかく落ち着こうとしたけど、意識は常に壁の向こう。いや、下と言うべきか。バーのある方向に行ってしまう。

 クリスマスからずっと、心を置いてきているのかもしれなかった。

「シャワー……浴びるかな」

 あるよな、と部屋のテーブルにある案内を確認しようとして、ぎゃっと声を上げる。いつの間にか時間が20時に迫っていた。開店してすぐ入店したかったので、慌てて飛び上がる。

 背伸びしすぎもよくないよな、と思って持ってきた革製のバッグに着替えたあとの服を詰めてネカフェを出る。愛想の欠片もないネカフェの店員なんて気にならず、微かに息を荒くしつつバーのある階段前に着いた。

 20時3分。
 やや遅れ。看板は出ていて、すでに営業中になっていた。

「すー……はー」

 緊張を解そうと深呼吸する。
 去年のクリスマスは、引き返そうとしたところバーのお姉さんに案内される形で入店した。ただ、今回は1人だ。あの人は店にいるだろうし、会うためにはこの階段を下りるしかない。
 誰も手なんて引いてくれない。

「ぃよしっ」

 勢い、勢い。
 と、踏み出して、「ふひゅっ」とさっそく階段を踏み外して落ちそうになる。バーに入店する前から死にかけてしまった。無駄にかいた冷や汗を拭って、店の扉の前に立つ。

 重厚な、けれど雰囲気のある木の扉。
 ひやりと冷たい取っ手を握って押し込み、クリスマスに聞いた来店を知らせるベルの音が響いた。

「いらっしゃいませ」

 出迎えてくれたのは、初めて会った日からずっと瞳に焼き付いているバーのお姉さんだ。あの日と変わらず、バーテンダー服をスマートに着こなしたお姉さんは、俺を見て歓迎するように微笑んでくれる。
 なんだかもう、それだけ満足で、クリスマスからずっと心を落ち着かなくさせていた緊張や期待が雪のように溶けていく。

「また来てくださったのですね」
「っ! は、はいっ」

 上ずった声でこの人に俺の気持ちが伝わっていないか心配になる。
 1度しか顔を合わせていないのに、バーのお姉さんが俺のことを覚えていてくれたのが嬉しくて、だらしなく頬が緩んでしまう。

 けど、そんな顔を見せ続けるわけにもいかない。キリッと引き締めて……ると思うんだけど、鏡が欲しくなる。心がふわふわしていて、ちゃんとできているか不安になる。
 入店直後から満ち足りて、新しい不安に心が揺れている。

「どうぞ」

 と、促されなかったら、ずっと入口の前で突っ立ったままだったかもしれない。
 バーのお姉さんの正面に座って、ちらりと店内に視線を走らせる。
 店内にはまだお客の姿はない。よかったような、2人きりという状況に緊張感が増したような、なんともいえない感覚だ。

「オープンしてからすぐは、人が少ないんですよ」
「そ、そういう意味では……!」

 客がいないとは思ったが、貶めたつもりはない。
 誤解されてしまったとあわあわすると、「わかっていますよ」とくすくす笑われてぷしゅーっと頭から湯気が立ち上った気がする。

「ええ、ですので、あなたに来ていただけてよかったです。……スーツ、似合っていますよ」

 本当に来てよかったんだ、という安心と、服装への指摘、褒め。
 どれに喜べばいいのかわからず、感情が迷子になってしまう。覚えてくれている、見てくれている。そういう意識を感じられて、じわじわと嬉しさが込み上げてくる。

「ただ、服装は無理をしなくて構いません。個人経営のしがないバーです。ドレスコードはございませんので、気軽な格好で来てください」
「あ……そう、なんですね」

 敷居の高さを感じてスーツに着替えたけど、意識しすぎだったらしい。

「パーカーにジーンズでも、お好きに。もちろん、スーツでも。大人の男性のようで、とてもお似合いですから」
「~~っ」

 なんというか、なんというかだ。
 俺のことが全部筒抜けで、微笑ましいと笑われている気がしてならない。嘲笑の意味がないのはわかっているが、“大人の男性のよう”というのが、背伸びしている子どもと聞こえてしまう。

「今夜のご注文は?」
「……おすすめで」

 黒いシックなメニュー表は、いまだになにが書かれているかわからない。もう少し勉強してくればよかったな、といまさらながらに後悔する。

「かしこまりました」

 けど、バーのお姉さんは俺の後悔になんて触れず、棚に並ぶお酒に手を伸ばす。透明な水みたいなボトルに指先で触れた。

「アルコール度数は、少ないものにしましょう」
「…………助かります」

 見抜かれている。
 頷いたバーのお姉さんが手際よくカクテルを作っていく。その間、思い出したのはクリスマスでこのバーから出たあとのこと。

 熱い高揚感。
 そうしたものを持ち帰って、電車で自宅まで帰ったのだけど、アパートに着いた途端、胃の中の物をすっかり吐き出してしまった。

 まさに天国から地獄。
 アパートまで保ったのが奇跡といっていい。

 たかが1杯と侮っていたが、アルコール度数が相当高かったんだろう。お酒の苦手な俺でも飲みやすかったが、体が受け付けるからは別問題だったらしい。

 まさか、クリスマスで最高と最低を同時に更新するなんてな……思い出して、乾いた笑いがはは、零れる。
 そんな状態だったから、翌朝になって『あのとき胸に感じた熱はお酒に酔った勘違いだったんじゃないのか?』という疑念が湧いた。もし、そうなら人生の底値を年明け早々更新することになってしまうが……幸い、それはなかった。

 手際よく、氷の入ったグラスに水を注ぐバーのお姉さんを見て、胸の熱は薪を焚べたように燃え盛る。
 酔っているのは間違いないんだろう。
 でも、それはきっとアルコールにではない。

「お待たせしました」

 ハーブが1枚乗った透明なカクテル。
 受け取ったグラスにちびりと口をつけながら、酔うのは美しいこの人にだった。