第3話

 ――いらっしゃいませ。

 来店を告げるベルとともに俺を出迎えたのは、縦に長いやや手狭なバーだった。
 薄暗い照明はバーらしい大人の雰囲気を演出している。

 10席もないカウンターには椅子がひっくり返って乗っていて、とても営業中には見えなかった。冬至が過ぎ、外はもう暗いが、感覚的にはようやく夕方を過ぎたといった時間だろう。

 バーの営業にはまだ早い……気がする。わかんないけど。
 やってるって言ってたけど、気を遣ってくれたんだろうな。

 なにも言わず、カウンターから手早く椅子を下ろして「おかけください」と丁寧に促してくれるバーのお姉さんに頭が下がる。

「ありがとうございます」
「仕事ですから」

 なんて、バーのお姉さんは笑って言うが、それが嘘だというのはわかる。
 招いてくれたのはこの人の好意だ。

 こういう人がぼったくってくるとは思わないが、騙されてもいいな、と思えるくらいにはもう絆されていた。俺みたいのが優しい顔した詐欺師に引っかかるのかもしれない。
 申し訳ないが、それで好意を無下する方がもっと失礼だろう。お礼だけ伝えて、足が長く、高い椅子に飛び乗るように腰掛ける。

 ……足がつかない。
 ぷらぷらして子どもみたいだ。こういうものなのか、それとも俺の足が短いのか。そういえば、バーのお姉さんの身長は少しだけど俺より高かった。

 男としては小さいけどぉ。
 昔からのコンプレックスを刺激されたが、それこそバーのお姉さんには関係ないので笑顔で子どもっぽい感情を呑み込む。

「ご注文はなにになさいますか?」

 黒い表紙のメニュー表を手渡される。
 開いて……なにこれ。
 メニューはカクテル一色だった。そして、なにが書いてあるかわからない。

 いや、文字は読める。大丈夫。まだ酔っていない。
 でも、そこからどんなカクテルか読み取れなかった。ホワイト・ルシアン? カウボーイってお酒なの?
 わかるのはジントニックとか、カシスオレンジくらい。

 前に大学の飲み会でカシスオレンジを頼んで『自分をかわいいって思ってる自称清楚系女子かよ』と笑われてから頼めないでいる。ジュースみたいで美味しいでしょうが。

 ジン・トニックでもいいけど、普通すぎる気もする。
 他にはなにが、と馴染みのないメニューばかりで焦る。待たせているから余計に。

「初めての来店記念に、今夜はおすすめをご用意してもよろしいでしょうか?」
「……お願いします」

 にっこり微笑まれる。
 こういう場に慣れていないのが丸わかりなんだろう。羞恥で頬が焼けるのを感じつつも頷いて、そのまま下を向く。恥ずかしくて、とても顔を上げられなかった。

 でも、カシャカシャ、と振る音がして上目で様子を窺う。
 シェイカーというのだったか。いつの間にお酒を注いだのか、ドラマとアニメでよく見るバーテンダーがシェイカーを振る姿だった。
 さっきまでの親しみやすい接客とは違って、氷を研いだような冷たい凛とした横顔に思わず見入ってしまった。

 顔を見られたくないとか、そんな安い感情は露と消えて。
 洗練されたプロの仕事をただただ見つめていた。

「――お待たせしました」

 すっとカウンターの上を滑らせたのは、かわいらしい逆三角形の小さなグラスだった。
 グラスの中では、白く濁った液体が静かに揺れていた。
 甘い炭酸飲料を連想する見た目で、これがお酒……? と不思議で見つめてしまう。

「えと、いただきます」

 少し手が震えただけで零れそうなグラスのカクテルをゆっくり持ち上げて、口につける。見た目ほどジュース感はなく、甘くもない。柑橘系の酸味と苦みを感じて、そのすぐあとに喉を焼くアルコールのひりつきに、けほっとむせた。

「つよっ」
「口に合いませんでしたか?」

 心配した声に手を振る。

「だいじょ、ぶです。あまりお酒に慣れていなかったので、驚いた……んんっ、だけです」
「そうでしたか。申し訳ございません、今夜は強いものがいいと思ったのですが、失敗しました」

 喉の調子を整えつつ、バーのお姉さんが口にしたこのカクテルを出した理由が気にかかった。

「どうしてですか?」
「なにか悩むことがあったのではありませんか?」

 探る、というよりも確信を抱いているような問いかけに驚いて、お酒とは関係なくむせてしまう。
 顔に出てた?
 頬に触れると、「心当たりがお有りなようですね」と言われて、頬に触れた指を隠すように握る。正直すぎではなかろうか、俺。

「……どうしてわかったんですか?」
「バーテンダーですので」

 理由になっていない。
 グラスを拭きながら、バーのお姉さんは目元を伏せる。聞いていないように見せているのは、俺が話しやすいようにするためなのか。バーテンダーだから話しやすい空気を作れるのか、鍵をして抱えていた気持ちを自分の手で開けさせるような、そんな雰囲気があった。

 初対面なのにな。
 それとも、知らない相手だからこそ話そうとしているのかも。
 浅く唇を噛んで、瞬きを数回。
 小さく息を吐いた。

「……今日、幼馴染から連絡がきたんです。作家になったって」

 ぽつり、ぽつりと、これから降り出す雨のように語っていく。

 進路に迷っている。
 周囲と自分の差。
 夢も将来も、なにも先がない自分。
 同じだと思っていた幼馴染が、成功して妬ましさ。

 本降りになったように、1度吐き出すと止められなくなって、理路整然となんてしていなかった。自分でもなにを言っているのかわからないくらいぐちゃぐちゃで、気持ちばかりが先走っていた。
 でも、バーのお姉さんはなにも言わなかった。

 グラスを拭く手を止めて、深海のような瞳にただ俺を映して、耳を傾けてくれる。
 答えない。応えない。

 けど、だから全部吐き出せたのかもしれない。胃が空っぽになった気分だ。やたら、体が熱くて、頭はぼーっとする。小さなグラスでたった1杯のカクテルしか飲んでないのに、酔いが回ったのだろうか。

 お酒で愚痴を零したくなる人の気持ちがなんとなくわかったな。
 よくない心地よさを覚えてしまった気がするが、いまはその是非を問う理性は俺にはなかった。

 吐き出しきって、スッキリした。
 こんなことで気持ちが楽になるもんなんだって、自分の簡単さがおかしくなって、顔を上げる。

「……ぁ」

 最初に見たのは、ただ見届けてくれたバーのお姉さんの微笑みだった。
 店先で出会ったときから綺麗だとは思っていた。

 でも、いまは曇っていた視界が晴れたように鮮明で、この人の顔がさっきまでよりもずっと綺麗に見えた。深い海の底のような瞳に、ずぶずぶと溺れていくような感覚。
 熱に浮かされてぼーっと見つめていると、「お客様?」と呼びかけられてハッと我に返った。

「お水をお出ししますか?」
「だ、大丈夫ですっ」

 いまのは……。
 口元を隠す。胸に手を当てると、服の上からなのにどうしてか、やけどするような熱さを手に感じた。

「あの、えっと……美味しかったです」

 味なんてもはや忘れていたけど、拙くそう言うのが精一杯だった。視線を外して、どうにか絞り出したお礼にバーのお姉さんは「ありがとうございます」と律儀に返してくれた。

「じゃ、じゃあその、帰りますのでお会計を」

 この人の顔を見ているだけで、鼓動が早くなってしまう。
 ここにいたい気持ちがあるのに、このままだと内側の血が沸騰してしまいそうだった。

 残りたいのか、逃げたいのか。
 頭の中がぐるぐるして、世界まで回っている気がする。

 バーのお姉さんは落ち着くまでいていいですよ? と言ってくれるが、このままここにいては一生落ち着く気がしなかった。どうにか固辞して会計をお願いすると、心配そうに長いまつ毛を伏せると、ようやく「わかりました」と頷いてくれた。

「ですが、お代は結構です」

 え、と驚く俺に、バーのお姉さんは言う。

「今夜は私がお誘いしましたから」

 それが理由でお代を断っていたら、世の中にぼったくりバーなんて存在しなかったろう。
 バーのお姉さんの優しさになんだか涙が滲んでくる。

 込み上げてくるものを喉元でぐっと堪える。その好意に甘えるようで申し訳ないが、これ以上その端麗な顔を見ていると気絶してしまいそうだったのでお言葉に甘える。

 逆上せて気絶……なんて情けない姿は見せたくなかった。
 代わりに俺は尋ねる。

「……また、来てもいいですか?」

 俺の言葉に、バーのお姉さんはバーの店主らしく慇懃いんぎんに頭を下げた。

「またのお越しをお待ち申し上げております」

 接客業の定型文に見送られて、俺はバーをあとにした。
 階段を上がって、吹き込む冬の風がいまだけは心地良かった。

 裏通りの景色は店に入る前と変わっていない。
 相変わらず、クリスマスの幸せで満ちる人々ばかりだ。さっきまでは、自分との差に鬱々としていたけど……俺は揚々と浮つく群衆に混ざる。

「また、来よう」

 バーには、俺が望んだ夢も将来もなかった。
 でも、お酒に酔うような熱をもらって、俺を変えるなにかはあったんだ――