第4話

「それは大変だったね」

 翌日の深夜。
 レポートを超特急で終わらせた疲労がまだ残っていた俺は、閉店後のバーカウンターに突っ伏していた。本当は、この人の前でこんなだらしない姿を見せたくはない。でも、精根尽き果てていて、頭を支える首がぐでっと前に倒れてしまう。

 もう、今日ばかりは許して。そんな心境だった。

「どうにかレポートは提出しましたけどね」

 それだけが救いだった。
 週明けの月曜はいつも顔を出していたけど、バーに来れなかったのは心残りだ。ソシャゲの連続ログインボーナスを逃したときのような気持ちとでも言えばいいのか。いや、ショックはそれ以上だけれど。

 でも、バーのお姉さんから労いの言葉を聞けただけでも、今日来れてよかったと思う。レポートを提出したのに『また忘れたのか』と講師に呆れた目を向けられた理由はわからないけど。

 疲れているせいか、今日は酔いも早い。
 このままだと寝ちゃいそうだった。
 そうして、うとうとしていると、髪を撫でる感触があって、重たかった瞼を「え」と見開く。

「お疲れ様」

 さっと、髪に触れるくらいだった。
 頭を撫でたというほどじゃないけれど、でも、行為としてはそういうことなんだろう。
 驚いて、上体を起き上がらせる。

 バーのお姉さんはただ慈しむように微笑んでいて、俺の伸ばしていた手をゆっくり引っ込めているところだった。
 子ども扱いは嫌だって思ってたのに。

 撫でられた感触はまだ髪に残っていて、じわりじわりと嬉しさが体を震わせる。現金なものだ。でも、酔いもあって、その心地よさにただただ身を預けていたかった。

「ご褒美にカクテルをご馳走するよ」

 いまのでも十分すぎたご褒美だったのに、追加があるとか俺はどんな得を積んだのか。むしろ、期限の過ぎたレポート、徹夜でやっつけて翌日提出するような不心得者だ。前世が兎だったのか……なんで兎?
 動揺して思考がハチャメチャだ。

 けど、と。
 もし、ご褒美を貰っていいのなら、もらいたいものがあった。

「あの……」
「ん?」

 席を立とうとしたバーのお姉さんが喉を鳴らす。
 強欲だ。
 そう思うも、衝動を止めることはできず、膝に置いた手をぎゅっと握り込む。俯いたまま、振り絞るように尋ねる。

「お姉さんの名前を、教えてほしいな、と」

 なんてたどたどしい喋り方だろうか。
 まだ、小学生の方がマシかもしれない。緊張で舌が回らないにしても、もう少ししっかりしたかった。顔も見れないで、お願いやご褒美というよりも縋っているみたいだ。

 20歳の成人が、幼子みたいになにやってるんだか。
 恥ずかしくて顔から火が出そうだった。でも、撤回しようとは思わず、ただただその熱に耐えるしかなかった。

「…………っ」

 しばらく返事はなくて、どんな顔をしているのか不安になっていると、突然、ふふっと耐えきれなくなったとばかりの笑い声が鼓膜を震わせた。

「あははっ!」
「わ、笑わなくてもいいじゃないですか……!」

 これでもこっちは必死だったんだ。
 名前を訊きたいな、と思ってもタイミングは掴めず、いましかないと思って、この人の言葉に便乗した。情けないのは認めるけど、それでも、俺はこの人の名前を知りたかったんだ。

 その結果が笑われてって、大の大人が泣くぞぉ、本気でぇ。

「いや、うん。ふふっ、ごめんね。謝るよ」

 そう言いつつ、バーのお姉さんは濡れた目尻を指の甲で拭う。

「でも、馬鹿にしたわけじゃないから。ただ、かわいいなって」
「……それはそれで恥ずかしいんですけど」

 どうあれ褒め言葉じゃない。
 疲労ではなく、羞恥で突っ伏し直す。
 もういいですよー、と不貞腐れる俺の耳に、そっと夜の風のような声が届く。

夜凪蓮よなぎれん

 その名前があまりにも心地よく聞こえて、羞恥も不機嫌もあっという間に吹き飛ばされてしまった。顔を横に向けると、夜の砂浜から見た水平線のように薄くなった瞳が俺を見つめていた。

「君の名前は?」
「……春直白」
「白、白、白」

 馴染ませるように夜凪蓮さんは何度も俺の名前を呼ぶ。噛み締めるようなその行為がむず痒くて、何度も何度も産毛を撫でられているみたいだ。

「そうだね」

 呟いて、納得したように頷く。

「シロがいいかな」

 言葉は同じなのに、発音かイントネーションか、なんとなくカタカナを思わせる呼び方だった。どうしてその呼び方なのか。疑問はあるけど、下の名前で、しかも呼び捨てだったことに動揺してそれどころじゃない。

「なら……蓮、さん」

 対抗ではない。
 ただ、俺もそう呼びたくて、なら、と言い訳をくっつけた。不安と期待を乗せた呼びかけに、この人は「シロ」と応えてくれた。

「ご褒美になった?」

 どうかな? と、覗き込んで確認してくる蓮さんに俺は顔を伏せるしかなかった。
 彼女への唯一の返答は、赤くなった耳だった。