第3話

 バーに通うようになってから、そろそろ2桁に達していると思う。
 お酒はそんなにじゃないのによく通うと自分でも思うが、通っている理由をちゃんと考えると寝込むしかなくなるので、そうした思考は外に追いやる。

 思考停止も、現実逃避も。
 知恵ある人間だからできる武器だと思う。
 ただ、それも現実を前にしたときには、どうしようもできないんだけど。

「サービスです」

 きっちり24時。または0時。
 翌日になってバーに来店して席に着いた途端、バーのお姉さんが笑顔でカウンターに置く。まるっとした取っ手のないグラスに、ココアの色をした重さを感じるカクテル。

 グラスには小さいハートのチョコが乗せられていて、つい3日前に終わったバレンタインの名残を思わせた。
 ハート……。
 いや、や。

 そういう意図はないだろう、絶対。ない……のはわかっているんだけど、サービスと供されたそれは少し遅いバレンタインのようで、嬉しくないと言えばすごく嬉しい。
 飛び跳ねたいくらいに。

 けど、毎回なんだかんだスーツで来て、少しでも大人っぽく思われたい俺としては、そんな子どもっぽい真似をするわけにはいかなかった。
 それに、気にするべきはそこではなく、サービスとして提供されたのは初めてじゃない、という現実についてだ。

「あの……ここって、お通しを始めたんですか?」
「始めていません」
「水の代わりにカクテルを出すようになったとか?」
「カクテルを水と称するほど、寒い地域に住んではおりません」

 では、なんで毎回サービスで1杯、カクテルをご馳走してくれるのか。
 1月まではそんなことはなかった。
 サービスしてくれるようになったのは2月からで、その初めては俺が家庭教師のバイトを増やして疲れていたからだ。

 疲れが顔に出ている?
 だからって、こう毎回バーのお姉さんがサービスしてくれるというのはそうないのではないか。

「常連様ですから」

 まるで俺の心の疑念を見抜いて、添えたような説明だった。
 だったら納得……とはいくわけもなく、バーのお姉さんが他の常連さんにサービスでカクテルを提供したところは目撃したことがない。
 つまり、俺だけ。

 そう考えると特別感があって、耳障りのよさに嬉しくなってしまう。
 でも、その理由はたぶん違くて。
 バイトを増やして疲れているから、お金がなさそうなのに来てくれているから。

 そんな労いに近いのだろう。
 バーのお姉さんは優しいから。
 出会いからしてこの人の気遣いだったんだ。まず間違いなくそうだろう。

「……むー」

 唇が尖る。
 不満を覚えるのが失礼なのはわかるが、バーのお姉さんの行為は子どもに飴を上げるのと同じ意味だろう。まさしく子ども扱いで、大人の男として見られたい俺としては、この扱いを歯がゆく思ってしまう。
 サービスで助かっている分、余計、複雑な心境だった。

「んぐっ!」

 出されたカクテルを一気にあおる。
 甘い、チョコとミルクの味。そこにお酒の味が混ざって、粘りつくように喉に絡んで胃に流れ落ちていく。グラスをカウンターに置くと、カランッと氷のぶつかる音がした。

 濡れた口元を拭うと、目を丸くしているバーのお姉さんが目に留まる。

「もう1杯、おすすめをいただけますか?」
「一気飲みはよくありませんよ?」

 その優しい注意がまた子ども扱いされたようで、「大丈夫です!」とムキになってしまう。
 バーの店主としては、注文を断るわけにもいかないのだろう。心配そうにこっちを見るも、その手は注文通りカクテルを作り始める。ただ、その動きはいつもよりも精彩を欠き、遅いような気がした。
 普段よりも時間がかかって出来たカクテルをまたあおる。

「――おかわり!」

 この辺りから、記憶はあやふやだった。

  ◆◆◆

「……あたま、いたぃ」

 ついでに重い。
 脳髄から響く鈍痛がとにかく痛い。体もあちこち痛いし、上ってくる吐き気にうぷっと口を押さえる。

「……どこだ、ここ?」

 座って寝ていたらしく、固まった体のあちこちからバキバキと音がする。ふらつく頭を手で支えて、どうにか顔を上げて――さーっと血の気が引いた。

「……………………バー?」

 たった2文字がやけに絶望して聞こえた。

「どうし、どうして、や……どうして、じゃ、ないよなー」

 両手で顔を覆って、昨夜のことを思い出そうと二日酔いの頭を無理くり動かす。
 記憶は曖昧で、霞がかっている。

 思い出そうとするほど、吐き気まで上ってきて、口から記憶とは別のものが飛び出しそうになる。ただ、わかるのは、俺がここで酔い潰れるほど飲んでしまった、という黒歴史真っしぐらの痴態を晒したということだった。
 状況をふわっと理解して、じわりと目尻が濡れる。お酒で涙腺が緩んでいるのかもしれない。

「なにやってんだよぉもぉおおお」

 支えの手から落ちた頭がカウンターにごんっと落ちる。
 額が痛いが、構っている余裕なんて体調的にも精神的にもない。

 バーのお姉さんに子ども扱いされたからって、苦手なのにやけ酒じみた飲み方をした挙げ句、酔い潰れてそのまま店で寝てしまった? 最悪すぎる。
 迷惑はかけたくないと思っていたのに……。

「……死にたい」

 ずーん、と重力が増したように頭が上がらない。
 これから俺はどうすればいいんだろう。
 後悔ばかりが心の中で渦を巻いていた。

「――お目覚めかな?」

 聞き覚えてのある、けれど、店のときよりも低い女性の声音だった。
 さっきまであれほど上がらないと思っていた頭を、カウンターから勢いよく跳ね上げる。
 とにかく謝らないといけない。
 そう思って、声のした方向を見て……言葉が出てこなかった。

「おはよう、お客様」

 口元を綻ばせたバーのお姉さんはバーテンダー服ではなかった。
 黒いオフショルダーのブラウスで、大きく開いた胸元から豊かな谷間が覗いている。仕事中にはつけてなかったピアスが揺れていて、かっちりとしたバーでの姿からは想像できないラフさだった。

 まるで別人みたいで。
 その女性的な格好に後悔も忘れて見惚れてしまった。