第2話
1月も終わりに差し掛かろうとしていた頃、そろそろヤバいなと家庭教師のバイト先に連絡を入れた。
「シフト、増やせませんか?」
その日は日曜日で、雲一つない冬らしい高い青空だったが、俺の心……というか懐は寂しくなっていた。
「そうなるだろうけど」
財布には千円札が1枚と、小銭が数枚。スマホ決済にも入金してあるが、財布と似たりよったりだ。現実も電子もあまりにも軽かった。
バイトの給料日は迎えたばかり。
さすがに銀行口座に生活費はあるが、この極端な減りようを見ると不安になるというか、破産に近づいているのはわかる。
その原因はわかりきっていて、バーに通い始めたからだ。
「週3は行きすぎか」
行きすぎかな? 飲食店と考えたらそんなに……でも、夕食は別だし。
言い訳しようにも、心の中だというのに律儀に反論してしまう。
もともとそんな余裕のある大学生活は送っていなかった。実家からの仕送りで生活の心配は少ないが、かといって全部を賄ってもらっているわけじゃない。
食費や趣味は家庭教師のアルバイトから出しているし、そう裕福でもない実家に迷惑はかけられない。これで、仕送りにまでバー通いのお金に使っていたらクズ真っしぐらだけど、どうにか踏み留まっている。
どうにかの時点で、どうかとは思うが。
「でも、会いたい」
そこは揺るぎない気持ちで、キャバ嬢に貢ぐ人の気持ちがわかってしまうのは、たぶん成長ではないんだろう。むしろ、堕落と呼ぶべきか。
底なし沼のように深みにハマっている気がしなくもない。
最後の一線だけは超えないようにしようと誓うも、さて最後の一線はなにを差すのかと疑問が過ぎる。仕送りを家賃以外に使ったとき? 借金をしたとき?
どこだろう、と割と真剣に考えている間に、スマホで通話していたアルバイト先から返答が来た。新しく入会した子がいるのでどうか、と。
電車で移動は必要だが、アパートからそう距離も離れていない。なにより、急なことなのでわがままを言える立場でもない。お願いします、と伝えてスマホを切る。
「週5かー」
場合によっては週6になりそうで、労働基準法とかどうなの? と思わなくないが、そこは俺の都合もあるのでないないしておく。時間拘束的には問題ないらしいし。そもそも、労働基準法を正しく理解している労働者がどれだけいるのだろうか?
ひとまず、バーに通える資金は確保できそうだぞ、と安心する。
バイトが増えて、バーに来店できる時間が遅くなりそうだけど、閉店時間は午前3時なので行けないということはない。俺の睡眠時間は……ないない。
◆◆◆
「ふわっ、は」
大きな欠伸が出た。
涙で滲んだ視界をこすると、カウンターの中からバーのお姉さんがこっちを見ていた。変なところを見られた、と顔が羞恥で火照る。
この人のバーに通うようになって1ヶ月以上。
多少なりともその端正な顔立ちには慣れてきたつもりだが、ふとした顔に見惚れることはまだあった。ただ、見られただけで顔を赤らめるなんて乙女チックな反応はしなくなった……けど、油断した姿を見られるのはいつだって恥ずかしい。
「お疲れですね」
「……えぇ、まぁ少し」
まさか、バーに通うためにバイトを増やした、とは言えるはずもなく、精一杯に濁す。
『ノンアルコールもありますよ?』と勧められて頼んだレモンサワーのようなモクテル――最近はノンアルのカクテルをそう呼ぶとバーのお姉さんが教えてくれた――をちびりと飲んで視線を逸らす。
逸らした先には派手なドレスを着た女性が2人。見るからに夜のお嬢様という雰囲気がある。
バイトで時間が押すせいで、バーに来れる時間が日を跨いでからになった。そのためか、よくこういったお客を目にするようになった。
バーというのは男性のイメージがあったが、意外と女性客が多いのは、店主が若い女性だからだろうか。
「来店されるお時間が遅くなりましたが、お疲れの原因もそこにあるのでしょうか?」
「え」
尋ねられたことに驚いて、声が出てしまった。
女性客にこっちを見られて、慌てて口を塞ぐ。恥ずかしい。
ぺこりと頭を下げつつ、上目でバーのお姉さんを窺う。
――この人から訊いてくるのは初めてだ。
バーのお姉さんは話し上手というよりは、聞き上手だ。それがバーテンダーというものかもしれないが、聞き返したりとか、話を振ってくるということもない。
話しやすい。
そうした雰囲気だけを上手く作っている。
だから、急に質問されて驚いてしまった。瞬きを繰り返して、動揺のせいで隠していた理由を舌に乗せてしまう。
「バイトを増やしたので、それで疲れが出ているのかもです」
「アルバイトを?」
「は、はい。家庭教師の」
言わなくていいことまで喋っている気がする。
グラスを拭くバーのお姉さんの手がぴたりと止まる。なにかを考えるように深い青色の瞳が遠く……といっても、壁しかないのだが、とにかく遠くを見ている。
なんだろう?
そんな変なことを言ったつもりはないんだけど。
沈黙が続き、比例するように不安が風船に空気を入れるように膨れていく。
動悸を抑えようと、ひんやりとしたグラスを両手で包む。冷たい結露が手から染み込んでくるようだ。そうして、長い沈黙を破ったバーのお姉さんの深海が水面のように俺を映し出す。
「……もしかして、私?」
「――」
心臓を鷲掴みにされた、そんな感覚だった。
ぎゅっと心臓が絞られ、大きく跳ねた。
短い確認の言葉。
意味するところは十分に伝わってきて、そのバーテンダーとは違う、この人の素が見えたような口調にぶわりと総毛立つ。
「………………」
今度の沈黙は俺がして。
見透かされたことがただただ恥ずかしくて、俯くしかなかった。顔なんて上げられない。こんな顔、この人に見せられるわけがなかった。
でも、返事は必要で。
血が出るくらい噛んだ唇を微かに開いて、でも、震える喉から声は出なかった。
だから代わりに小さく頷いて、それを答えとした。
小さな首肯。
震えにしか見えなくても不思議ではなく、ちゃんと伝わったのか、確認することはできなかったけど、
「……今日はサービスするよ」
これまでに訊いたことのない低い声に驚いて顔を上げると、冷たい、でも温かみのある微笑みを称えていた。
バーテンダーではない、店員と客ではない。
初めてみる彼女の顔に、また心の熱が温度を上げた。