第1話
連日、バーの扉は固く閉じたままだった。
その理由を俺は知らない。知る術もない。ただ、訪れては、開いていないことを確認するだけの夜を繰り返していた。
1日、2日なら偶然で済む。けど、1週間も続けばなにかあったと思う。
そして、その原因は間違いなく俺にあって、罪悪感や責任感、そこにただ会いたいというだけの感情が合わさって、鉛のように心を重くしていく。
「今夜も、か」
バーの扉を撫でる。
7月になって、夏は盛りだ。立っているだけで熱く、肌はじっとり汗ばむ。でも、このごろの俺は汗の冷たさばかりを感じて、早い冬が訪れたように寒さに震える日々だった。
蓮さんはバーに来ているのか、それとも、家にいるのか。
確かめようもない。けど、俺は蓮さんの家を知らないから、会いたいのならバーに来るしかなかった。だから、足繁く通うしかなく、鍵がかかった扉の前で立ち尽くすしかない。
「なにやってるんだかな」
すでにデートから10日以上経っている。自分の諦めの悪さにはほとほと呆れてしまう。
はぁ、と小さく息を吐いて、引き返そうと踵を返す……返そうとして、あれ? と昨日までとの微妙な変化に気づく。
「“Close”の看板が傾いてる……?」
眉根を寄せる。
真っ直ぐだった看板が斜めになっている。昨夜までは角度なんてなかった……はずだ。気落ちしているから、見間違えたのかもしれない。変化のない日々に疲れて、都合のいい勘違いをしているだけかもしれない。
もし、現実であっても、風で傾いた可能性もあるし、客の誰かが弄った可能性も捨てきれない。たかだか“Close”の看板が傾いただけ。そこになにを見るっていうんだ。
「でも」
見てしまう。希望を。
蓮さんが中にいるんじゃないかって。
厚い無骨な扉をノックする。もちろん、どれだけ待っても返事なんてない。やっぱり勘違いだ。そう落胆する俺がいるけど、地上から地獄に垂れる蜘蛛の糸のように、淡い希望に縋る俺もいた。
「蓮さん、俺……ここにいますから」
声を張って、扉の向こうにいるかもわからない蓮さんに伝える。
いてほしい。
そんな願望だけが俺を突き動かす。未練がましいったらありゃしない。
それからも、毎夜毎晩ノックをして、声をかけ続けた。いないに決まっているのに、いてほしいって気持ちに従って、営業していたら閉店だろう時間まで、裏通りの窪んだ、墓穴のような扉の前に座って待ち続ける。
階段から見上げた先は、小さく切り取られた裏通り。
空とビルが切り取って見えるくらいで、眺めていたところで代わり映えてなんてしない。絵画と評するには変哲もなさすぎる。でも、ときどきその枠に人影が落ちる。
「ありゃ、今日もやってないんだー」
間延びした、どこか緩い声だった。
階段を降りてくるのは、バーの常連客である2人組の女性だ。夜のお店で働いているのか、露出度の高い派手なドレスに、巻き髪をしている。
セミロングのお姉さんがやっほー、と手を振ってくるので、こんばんは、と座ったまま俺も挨拶をする。お店で話したことはないけど、カウンター席しかない狭い店内だ。お互い、名前は知らなくても顔は知っている。
もう一方の長髪のお姉さんは、扉の真下で座る俺に構わず、“Close”の看板に顔を近づけた。
「やっぱり閉まってるわね」
「もう7月じゃーん。なーにやってるのかなー」
そんな気はないだろうけど、責められている気がして、胸にちくりと痛みが走った。
お酒飲みたーいとじゃれつくゆるゆるしたお姉さんに構わず、私もよ、とだけ長髪のお姉さんは口にした。そんな彼女の意識が、初めて俺に向いた。
「待ってるの?」
声をかけられて小さく心臓が跳ねた。
お酒と香水が混じった夜の匂い。なんて答えるべきだろう。少し悩んで、ひとまず小さく頷いた。
「はい、会いたいですから」
「そう」
ふっと微笑まれた。
手が伸びてきて、何事かと身構えたけど、優しく頭を撫でられる。
「頑張りなさい」
「あー、ずるいー。わたしもやるー」
「え、や、ちょっと?」
割り込んできたゆるっとしたお姉さんに、大型の犬を可愛がるようにわしゃわしゃされた。突然のことに目を白黒させていると、「やめなさい」とどこか理知的な雰囲気を感じるお姉さんに手を引っぱられていた。
そのままいなくなった……と思ったら、わざわざ缶コーヒーをくれるために戻ってきた。
「餞別」
冷たい缶を受け取って、薄く微笑む彼女にありがとう、と伝える。
代わり映えのしない風景。
些細な変化は、またやってきた。
「なにしてんの?」
「店長さん」
「仕事は終わってんのよ」
蓮さんのことを教えてくれたバーの店主が階上にいた。
やっぱり、この人も“Close”の看板を見るために降りてきて、「久々に顔を見ようと思ったのに」とここにはいない蓮さんに向けて愚痴っている。
「で、あんたはやっぱりストーカーだったか」
「……かも、しれません」
状況的に否定できる要素もない。
前に首を倒すと、「本気にするな馬鹿」と頭を叩かれた。座って高低差ができるから、頭を叩きやすいのだろうか。夜のお姉さんといい、触ったところでご利益なんてないのだが。
「面倒な性格してるよ」
「……すみません」
「あんたじゃないよ。……いや、あんたもか」
くしゃくしゃと無造作に自分の頭をかいたバーの店主は、ちょっと待ってな、と言い残すと階段を上っていった。どうせ、閉店の時間まではいるつもりだから動く気ないけど、なんだろう、と見上げて待つ。
「夜とはいえ暑いんだ。あんまり無理しないように」
そういってコンビニの袋を渡してくる、というか押し付けてくる。中には水とおにぎり、それとカップのアイスが入っていた。申し訳ない気持ちになるけど、断る方が失礼だと思ってお礼を伝える。
「ありがとうございます」
「礼なら今度、蓮と一緒に店に来なさい」
それはどういう意味なんだろう。
蓮さんの元気な姿を見せろということかもしれないけど……なんだか別の意味にも聞こえて緊張してしまう。
夜は巡り、また人が来る。
頑張ってとか、無理しないでとか、なんでか応援されて、飲み物や食べ物を貰っている。どこで聞きつけたのか花屋の店員さんも来て、「正念場ですね!」なんて薔薇を一輪置いていった。
「そんな心配させるのかな」
……されるか。
気づけば20日以上も閉まっているバーの前で座っているんだ。不審者扱いされて、警察を呼ばれないだけマシだろう。
今夜もまた階下の小さなスペースでただ座って待つ。
梅雨は明けたけど、雨は降る。半地下だから直接雨は落ちてこないけど、小さな滝のように滴り落ちながら、階段を伝って流れ込んでくる。
「あっつぃ」
雨も相まってか、今夜は特に暑かった。
半ば隔離されているからか、風の通りが悪い階下は天然のサウナみたいになっていて、屈んでいるだけでも汗が滝のように首を濡らしている。喉元を拭ったら血みたいにべっとりしていて、脱水症状、と頭に浮かんでペットボトルの水を飲む。倒れて心配をかけるわけにはいかない。
「あつぃ」
でも、暑さばかりはどうしようもない。
ここに来る前に買ったから、水はもう温かった。寝不足もあってか、時折視界まで霞む。蓮さんのせいにしたくないから、寝足りなくても大学に通っているけど、今日くらいはしっかり寝てくればと朦朧とする頭で思う。
昼間と違って、陽がないのだけが救いだった。
寝たら、さすがにまずいよな。
死ぬとは思わないけど、騒ぎになるかも。そうなるくらいなら、今夜は帰るべきだ。
そう思うも、うとうととして頭が揺れる。立ち上がる気力が湧かない。
「……でも、もうちょっと」
あと、少しだけいよう。
……あと、すこし……だけ……――。
ぽつり、と頬に雨粒が落ちた。
あれ? いつの間に階段を上ったんだ?
不思議に思いながら目を開けると、深い青色の瞳からぼろぼろと涙が零れ落ちていた。
「蓮さん?」
呼びかけても、落ちてくるのは彼女の涙だけ。
いつの間に運ばれたんだろう。
そこはバーの中で、俺は床に転がっていた。それでも、頭が痛くないのは蓮さんが膝枕してくれているからだ。
夢か? これ。なら、ずいぶんとご都合主義で、幸せな夢だな。
会いたいとずっと思っていた好きな人に会えた上に、膝枕までされているんだ。夢で嬉しい。でも、泣かれてるのは困る。手を伸ばして、蓮さんの顔に触れる。
冷たく、柔らかい頬。指先が涙で濡れる。
あぁ、そっか。
「……蓮さんだ」
空っぽだった器が満ちたような、そんな充足があった。