第3話

「ありがとうございました!」

 バーに行く前、裏通りの花屋で薔薇を一輪買っていくのが、習慣になっていた。笑顔で見送られるのも慣れてきて、最近では店に入るとレジに薔薇が用意してあるくらいだ。
 予約をしているわけじゃないし、まだ常連と呼ばれるほど通っているわけでもない。

 でも、しっかりと顔を覚えられていて、毎回『応援してます!』とか『頑張って!』と手をぎゅっと握って見送られている。
 どこぞの嬢に熱を上げていると思われているのは確実で、それを否定しきれないのだから苦笑いするしかない。
 バーに着くといつものように蓮さんが笑顔で出迎えてくれる。

 俺も案内されたカウンター席に座るのだけど、少しだけ変わったこともあった。案内された席のカウンターに、一輪挿しの花瓶に赤い薔薇が飾られているんだ。
 それが俺が贈ったものなのは間違いなく、見える位置に飾ってくれているのが少し嬉しい。別に俺の好意に応えてくれたというわけじゃないけど、拒絶はされていないと思えるから。

「よければ、受け取ってください」

 今夜も新しい薔薇を渡す。
 蓮さんは毎回少しだけ躊躇ためらうように固まるけど、最後には「ありがとうございます」と受け取ってくれる。薔薇を贈り始めて10日近く経っているけど、いまのところ断られたことはなかった。

 蓮さんが受け取って、代わりのようにおすすめのカクテルをサービスしてくれる。
 その当たり前になった流れは特別感があって嬉しいけれど、同時に日常に浸かってしまったようで不安にもなる。
 告白というのは非日常で、一世一代のイベントだ。

 それがただの日常のやり取りとなっている。最初は蓮さんが薔薇を受け取ってくれたことが嬉しかったけれど、段々と欲が出てきているのか、反応がないことに焦りが生まれる。
 好き薔薇を贈り続けて、なにかが変わるのかな。

「お待たせしました」

 笑顔で返してくれたカクテルを見下ろす。透明な水面には俺が映り込んでいて、不安で揺れるように波紋が広がった。

  ◆◆◆

 4月が終わって、5月に入った。
 早いところでは梅雨入りで、アパートの部屋から見える空はくすんだ灰色だった。桜はとっくに散って、その名残りが少しだけベランダに残っているだけ。それも、雨が続けば放っておいてもどこかへ消えてなくなってしまうんだろう。

「……はぁ」

 大学に行く準備を終えて、ため息を吐く。窓がしっとりと白く曇った。
 講義が憂鬱ということじゃない。
 いや、それもなきにしもあらずだけど、今日は金曜日だ。今日が終われば明日には休みなのだから、こうも鬱々とする理由もない。
 俺が気にかけているのはやっぱり蓮さんのことだ。

「伝わってない……とは思わないけど」

 1ヶ月近く、薔薇を贈り続けているけど、反応は相変わらずだった。バーテンダーとしての距離感は崩れず、微笑んでお礼を告げられるだけ。押しても引いても手応えなんてなくて、代わり映えのしない日々に不安は膨れ上がるばかりだ。

 そこにきて、雨や曇りの多い天気なんだから、気分だって滅入るというもの。
 蓮さんに会うときはこんな顔を見せてはいないけど、バー以外ではため息ばかりだった。

「終わりにするしか、ないのかな」

 まだ熱はある。
 言葉にしない好きを伝え続ける原動力は胸にあった。
 迷いはあるけど、続けていいなら続けていたい。曖昧なままでも、好きな人に会えるのなら、この関係のままでいられるのなら、それでいいんじゃないかって、そう思ってしまう。

 弱気がつき纏う。挫ければ、すぐに顔を出しそうだ。
 でも、それが蓮さんの迷惑になっているならやめるべきで、1ヶ月という月日は好意を贈り続けるのには十分に長く、これ以上はエゴでしかない。

 ――もし拒絶されたら、バーに行くのは……蓮さんに会うのは最後にしよう。
 そう考えただけで、あの日の夜についた心の傷がずきずきと痛むけど、好きな人を困らせてまで、好意を伝えようとは思わなかった。
 よし、決めて、顔を上げる。そして、「あ」と声が出た。

「時間」

 どれだけ思い耽っていたのか、ヘッドボードの目覚ましはすでに8時になっていて、まもなく9時を回るところだった。ヤバいとは思うけど、急ごうという気にもなれず、朝から重苦しいため息をまた吐き出した。

  ◆◆◆

 その夜、バーに訪れたのは閉店間近になってからだった。
 告白のときもそうだったように、お客がいない時間を選んだ。あの日とは違い、夜でも暖かく、コートを着ていなくても過ごせる気温だ。代わりに5月らしい湿気に満ちていて、空気が重く肌に纏わりついている。

「あの日みたいな告白じゃない……けど」

 覚悟はあの夜以上だ。
 けれど、展望はあのときとは真逆で、どちらかと言えば後ろ向きだ。実際、関係を終わらせようとしているに等しいのだから、気分は振られに行くようなものだ。

「初恋は叶わないって、ほんとなのかもな」

 苦笑して、バーの扉を開ける。
 と、ごつとと鈍い音と衝撃があった。誰かにぶつけた、というのが直感的にわかって、その相手を想像して血の気が引く。扉から手を放して両手を上げる。そのまま一歩、ニ歩と後ずさると、バーから出てきたのは想像通り蓮さんだった。

「ご、ごめんなさい……! 大丈夫ですかっ!?」
「だ、大丈夫」

 という割には、額を押さえていて、肩がぷるぷる震えている。
 重い扉だ。そう勢いはなかったはずだけど、重さの分、勢いはなくても衝撃は大きかったのかもしれない。

 とにかく俺は平謝りするしかないが、顔を上げた蓮さんは本当に平気と笑ってくれる。でも、その目尻が痛みで濡れているのが見て取れて、こんな日になにやってるんだと、こっちも泣きそうだ。

「もしかして、店を閉めようとしてました?」

 まだ深夜3時は回っていなかったはずだ。ギリギリとはいえ営業中のはずだが、蓮さんが店の外に出ようとしたということは、そういうことなのかもしれない。
 ただ、俺の予想と違って蓮さんは「いえ」と首を左右に振って、屈んだ姿勢からそっと上目で俺を見つめた。

「今夜はシロが……来ないのかなって、思ったから」
「……っ」

 顔も、感情もくしゃくしゃになった。
 喉が震えて、唇を噛む。視界が曇りガラスを通すようにぼやけて、不安で満ちていた心が満ち足りていく。
 この人は本当に……ズルいなぁ。
 たったこれだけのことで、迷惑になっても諦めたくないって思わせるんだから。

「シロ?」

 名前を呼ばれて嬉しくなる。
 バーテンダーではない、蓮さんに。
 俺の顔に伸びる彼女の手。そのまま触れてほしかったけど、未練になりそうで、そっと後ろに下がった。中途半端に浮いた蓮さんの華奢な手に、最後の薔薇を手渡す。

「迷惑なら、もう来ないようにします」

 息を呑んだのは俺だったのだろうか。
 わからないけど、水の膜が張ったように揺れる視界の中で、蓮さんはその顔色を青くしたように見えた。少しはショックを受けるくらい、近くにいられたのかな。

 悪い気持ちだ。
 わかっていても、蓮さんが悲しく思ってくれていることが嬉しくなる。
 ぽろりと、視界が晴れる。

 鮮明になった世界に映る蓮さんは、心細そうに口元に手を添えて、深い瞳を泳がせていた。深く、深く。決意するようにその瞳をぎゅぅっと閉じて――

「またのご来店をお待ちしております」

 ――開いた先にいたのは、たおやかな微笑みを浮かべるバーテンダーだった。

「そう、ですか」

 口からこぼれたのが安堵か、落胆かは自分でもわからなかった。

「……また、来ますね」

 そう絞り出すのがやっとで、きっと笑えていなかった。
 下りてきた階段をそのまま上って、見上げた空は厚い雲に覆われたままだった。
 振り返る勇気も気力もない。
 ただ、このままじゃ駄目だということだけを理解して、長く長く息を吐き出した。