第2話
薔薇一輪を大事に抱えて、バーの扉の前に立った。
久しぶりに見る重厚な黒い扉は、壁のような重さを感じる。取っ手に触れると、その見た目通りの重さを感じて、鉄壁のように動かないんじゃないかと思わせる。
「……ふー」
長く息を吐く。
感じているのは気のせいで、緊張しているからというのはわかっている。俺が訪れて、蓮さんがどんな反応をするのか。それが身震いするほどに怖いんだ。
でも、まだ諦めないと決めてここまで来た。ぐっと力を込めて、扉を開ける。
いつものように来店を告げるベルが鳴った。ちょうど、お客の相手をしていた蓮さんがこちらに顔を向ける。かすかに瞼が持ち上がった……ように見えた。
「いらっしゃいませ」
それが気のせいだったと思わせる、あまりにも自然な挨拶だった。先週までと変わらない、普段通りに招き入れてくれる。まるで、あの夜は本当はなくて、すべて俺の夢だったんじゃないかと疑ってしまう、そんな泰然とした態度だった。
「今夜のご注文は?」
「……おすすめで」
もちろん、あの日、あの夜のできごとは幻なんかじゃない。
夢として忘れた方がいい、という意味なら夢と扱ってもいいのかもしれないけど、そうしたくないから恐ろしさに震えながらもまた蓮さんに会いに来たんだ。
かしこまりました、と上品な所作でカクテルを作ろうとする蓮さんに、俺はその前に、と声をかける。
「これを」
「……薔薇、ですか?」
胸に抱えていたんだ。店に入ったときから気づいていたはずだ。
ただ、それが自分にとは思いもしなかったのか、それともとぼけているのか、カウンター越しに渡しても眉根を潜めるだけだった。
どう思っているんだろう。内心が窺えず、伸ばした手が震えてしまう。
「よければ、受け取ってください」
「…………ありがとう、ございます」
小さな抵抗のような間があった。
でも、俺が譲らないと思ったのか、控えめに受け取ってくれる。薄く閉じた瞼の隙間から覗く瞳が、一輪の赤い薔薇を見つめている。その心中は窺いしれないけど、嫌がってはいない――そう信じたかった。
しばらく薔薇を持ったまま固まっていた蓮さんは、どうしたものかと視線を彷徨わせてから、こちらからは見えないカウンターの下に置いた。
そのままカクテルを作り始めて、ようやくほっと息を吐く。肩から力が抜けて、猫のように背中が丸まる。
受け取ってくれなかったらどうしようと心配だったけど……よかった。
先にいた常連の女性たちがなにやらこっちを見てこそこそきゃっきゃしている。明らかに俺の贈り物についてで、気恥ずかしさに顔が熱くなる。
でも、これで終わりというわけじゃない。
一度でなにかが変わらない。そんなことは実体験から理解している。どれだけ特別な行為であっても、たった一度で気持ちが変わることなんてない。
だから、薔薇を贈るのがどれだけキザで、周囲から笑われて、恥ずかしくても。
俺は気持ちを伝えるために贈り続ける。
「お待たせしました」
蓮さんが出してくれたのは、薄いピンク色のカクテルだった。
お礼を言って口に運ぶと、薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。ただ、その味は薄く、綺麗な見た目を楽しませるお酒に思えた。