第2話
感情を突き動かすのは、いつだって感情だ。
「……うー」
この日は朝からそわそわし通しだった。
寝付きは浅く、意識が連続していて寝たという感じがしない。ベッドで横になっているのも落ち着かなく、ようやく陽が上った頃にはベッドから出て、部屋の中をずっとうろうろしていた。
大学は休みに入っている。
ヘッドボードにある卓上のカレンダーは3月のまま。それを捲って、月が変わる。
「大学3年か」
正確にはまだ違うのだろうけど、年度が変わったというのは事実で、学年が上がったといっても過言ではないはずだ。
「講義なし、バイトなし」
まだ長い休みの真っ只中。焦る必要なんてなく、ひとり暮らしなのだから昼まで寝てたって誰からも叱られたりしない。
それなのに、日の出と同時に起きてしまったのには理由があった。
「――蓮さんに告白する」
決意は昨夜のうちにした。
でも、口にすると緊張で喉が締まり、胃の腑が重くずしりとする。
やめようか、今度にしよう。
そんな臆病は何度となく考えたけど、最後の境界を踏み越えさせたのは、はからずも蓮さんだった。
――……私にとって、お母さんみたいな恩人。
数日前。
蓮さんが見せた寂しそうな顔が忘れられない。瞳に焼き付いたように、その顔は鮮明に思い出せる。
――好きって伝えたい。
同情ではなく、ただそうしたいと思った。あのとき、好意があふれそうになって、そのまま勢いで気持ちを伝えなかったのは、糸のような理性が残っていたからだ。
でも、それはたった数日でぷつりと切れた。
気持ちを伝えたい。
強い衝動があって、抑えきれない。
正直、冷静な判断ができてはいない。勝算なんて真砂の一粒もなく、ただの感情任せだ。最後の一押しとなった、というか、この日にしようと決めたのは4月1日。新しい年度の始まり。なんてことはない願掛けだ。
新しい関係になるなら、この日かなって。
……それが関係の終わりになる可能性も、なくはないけどと暗い考えがもたげる。
「冗談でしたって、誤魔化せるかも、なんて」
エイプリルフールだからって、考えてなんかいない。
◆◆◆
一日千秋なんて言葉があるが、今日ほど1日を長く感じたことはなかった。
蓮さんを想っていたから……という、ロマンス的な部分もあるけど、閉店後まで待っていたのも理由の一つだ。さすがに営業中、他の客が見ている中で告白なんてしたくはなかった。
周囲に祝福されて幸せになりましたーなんて、恋愛小説の大団円を迎える可能性もあるけど、普通に振られて気まずい雰囲気というのも十分あり得るんだ。軽々な真似はできようはずもない。
「告白も初めてだもんな」
そもそも、異性として誰かを好きになったのが初めてだった。俺も思春期はあった。女性を意識する機会は多くあったが、それが明確な気持ちに育つということはなかった。
我ながら寂しい青春を送っていたものだ。
だからこそ、それを取り戻すように、俺は蓮さんに逆上せているのかもしれない。
「……それも、今夜までかもしれないけど」
告白前だっていうのに、ネガティブになってどうするんだとは思うが、今日も今日とてしとしとと雨が降っているんだから、気分も落ち込むというもの。
バーの前でしっかりとした黒い傘を畳む。やや急な階段は、微かに流れ込む雨に濡れて滑りそうで怖い。特に今夜は落ちたとか滑ったとか、受験生が気にしそうな不吉は起こってほしくなかった。
「バレンタインとか、クリスマスとか。どうして告白をイベントごとに合わせるかわかるなー」
勇気というよりは、不安を塗りつぶしてほしいんだ。
結局それは言い訳で、きっと結果なんて最初から決まっていたとしても。わずかでも慰めになるなら藁にだって縋りたい。
扉の横にあるシックな傘立てに、丁寧に畳んだ傘を差す。
バーの扉、その取っ手がやけに冷たく感じた。
「すー……はー」
深呼吸しても、動悸は収まらない。緊張は出ていってくれない。
息の詰まるような重苦しさを抱えたまま、いままで1番重たい扉を開ける。鳴った鈴の音が、幸福を知らせるものと切に願う。
「……今日は遅いご来店ですね」
深夜3時――5分前。
閉店までまもなくで、店内にお客はいなかった。だからか、蓮さんは閉店作業を始めていて、使い終わったグラスやカクテルの道具を片付けているところだった。
いつも通りの蓮さん。
見慣れているはずなのに、そのしっとりとした端正な顔を見ると、顔の筋肉がこわばったように固まる。
指先が震える。
それが喉、舌に伝わって声が上ずりそうだ。少しでもよく見せたい。そんな浅はかな考えは来店早々、砂城のように脆くも崩れ去った。平静を装うのがやっと、というか、それすらも怪しかった。
「あと、少しで閉店ですが……飲んでいく?」
誘うような流し目。大太鼓を叩くような鼓動で、心臓が破けていないのが不思議くらいだ。
もちろん、と答えたい。
でも、いまを逃すといつもの夜で終わってしまう。そんな気がする。
抱えた緊張も、熱も、吐き出すべきはこの瞬間だと言っている。
言おう、言うべきだ、言うしかない、言え。
重ねて唱えて。
小さく息を吸い込む。
「――好き、です」
絞り出した声ははたして音になっていただろうか。
不安になるくらいか細くて、うるさい心臓の音しか俺には聞こえなかった。
でも、蓮さんの反応でその心配が杞憂だとわかる。
入口で立っている俺を不思議そうに見ていた蓮さんの瞳が大きく見開かれる。深海のように暗い、底の見えない瞳が月のように真円を描いた。
驚いて――頬が赤らむ。
口元を綻ばせて、水が張ったように瞳がうるみ、店内に淡い光を反射する。
期待と不安がせめぎ合って、心臓が痛い。
もっと、ちゃんと伝えないと。
好きだけじゃ駄目だ。付き合いたいとか、どういうところが好きだとか、そういう好きを言葉にしないといけない。たった2文字で万感の想いが伝わるなんてことあるはずがないんだから。
過呼吸で空気を求めるように喘いで、それでも、告白を続けようとしたけど、夜風のような声に止められる。
「このあと、一緒にでかけない?」
その夜風は、夏のように熱く、頬を張りついた。
◆◆◆
待って待って待って。
この展開は考えてなかったどうしようどうすれば。
神様助けてと願っても、雨雲が覆う天に俺の声は届きそうになかった。
「いい夜……っていうには、天気が悪いかな」
「そそそ、そうですねっ」
動揺が全部出ていた。女性経験のなさが見に見えて、「落ち着いて」と蓮さんにくすくす笑われてしまう。
これまで照れる恥ずかしいなんてことは沢山あったけど、今夜ほど羞恥を感じたことはない。死にたい、殺してほしい。でも、このあとのことを想像すると、死んでる場合じゃないと生にしがみつく。
なにをしようと言われているわけじゃない。
でも、この流れは……と、いけない想像をしてしまうのは俺の情緒が幼いからか。
「バーにはいわゆる夜で働く女性客もいて、どこのホテルがおすすめって教えてくれるんだ」
「ほ、ほてる」
利用したことはないけどね、と傘の下で振り返ってしどけなく微笑む蓮さんを見て、思わず鼻を押さえる。そんな漫画みたいな、と自分でも馬鹿だと思うが、鼻血が出てないか心配になったんだ。
指先に触れたのは幸い血ではなかったけど、汗で濡れて火照っていて、スーツの裾で急いで拭う。
これが全部冗談でしたー、とかだったらたちの悪さに号泣は必至だが、落胆と同じくらい安堵しただろう。
でも、今夜の俺はありえないほど幸運で。
照明で照らされた“Hotel”と書かれた看板の前で呆然と見上げる、どこにもでもありそうなビルの前で俺の妄想のような想像が現実になるのを予感した。
「行こうか」
手を取られる。
これ以上ないほど心臓は脈打っているのに、まだ高鳴らせることができるんだから驚く。
そのまま知らないビルに白昼夢のように連れていかれ、その深い夜――俺は蓮さんと体を重ねた。
◆◆◆
翌朝、ホテルのベッドで目が覚めた。
ぼーっとしていて、意識がまどろみの中。自分がどこにいるのかもわからないまま、頭がすやすやしていて――そこからの昨夜のフラッシュバッグ。
蓮さんとの行為、しとね、裸、胸……。
頭の中では肌色とピンクでいっぱいで、すべてを追体験するのに1秒もかからなかった。刹那、瞬きで、うぉぉぉっ、と声にならない声で身悶える。
まさか、告白してそのまま男女の関係になるなんて誰が思うだろうか。
こういうのに慣れた手合なら計画通りとほくそ笑むのかもしれないが、俺は人生20年経験のない無垢な童貞として過ごしてきたので、まさかそんな流れが現実であろうとは……! と、感動に打ち震えてしまう。
起きたばかりだというのに、頭が痛くなるくらい血が上っている。初体験が気持ちよかったというはもちろんだけど、蓮さんの裸があまりにも綺麗で、エッチで……やばい、死ぬ。
鼻のつけ根をぐっと押さえる。白いベッドを血で汚すわけにはいかない、と堪えるも、すでに赤い痕跡が残っていて、初体験に初体験でいま死ねたら幸せだなと人生の終わりを意識した。
「……っ」
俺を現実に引き戻したのは、窓から差し込む陽光だった。
眩しさに目を細める。
窓を見ると、逆光の中に人影があって、そのシルエットで一瞬、服を着てないように見えた。まさか……、と朝から脳内ピンクな俺と違って、光に慣れてきた目はしっかりと私服を着た現実を映し出した。
そりゃそうだ、と落胆にも似た気持ちになるが、心臓は早鐘を打ち続ける。
朝陽を反射するウルフカットの黒髪。
肩から胸元まで剥き出しの服装は、その内側を知っているというのに色気に当てられそうになる。
カーテンを端でまとめた蓮さんが振り向く。
深海を想起させる青い瞳が、目覚めた俺を見て薄く微笑んだ。
「おはよう」
「っ、おはよう、……ございます」
「どうして敬語」
くすくすと笑われて、頬が熱くなる。
それまでもずっと敬語だったけど、そういえば、その……最中は繕う余裕がなかったなと恥ずかしくなる。
どんだけ必死だったんだよ、俺……。
掛け布団で顔を隠す。
――こんな綺麗な人と、俺は昨日、男女の……関係になったんだよなぁ。
関係を持ったいまでも、実感が湧かない。
優しくて、綺麗で……えっちで。
およそ、俺のような普通に生きてきた男と釣り合わない、振り向いてくれるはずない。そう思えるのに、こうして男女の関係になっているんだから、宝くじを買う人が尽きないわけだと心底思う。
「はい、コーヒー」
屈んで、深い谷間が覗く。
そのしっとりとした柔らかさを思い出してしまって、また羞恥の海にぶくぶくと沈む。
「……ありがとう」
指摘された敬語を外して、コーヒーを受け取る。
カップの中で湯気を上らせ、波打つ黒い液体を少し眺めてから一口。……苦い。
「ふふ、はい、砂糖」
「……最初から欲しかったんだけど」
「ごめんね、かわいかったから」
「……かわいいは褒め言葉じゃないけど」
「じゃあ、格好いい」
「~~っ」
ただの話の流れなのはわかっているのに、手伝いを褒められた子どものように嬉しくなってしまう。
子どもだ。
情けなく思うも、同時に満たされている自分もいる。
不思議な感覚だった。
心がふわふわしている。雲のように軽くて、浮いていた。
満たされている。
同じ朝を迎えて、彼女の淹れてくれたコーヒーを飲む。ただ、これだけのことが嬉しくて、微笑む彼女を見て気持ちが繋がっている気がした。
両想いになったから?
心が繋がったから?
それとも……体?
どれかわからないけど、俺と蓮さんは恋人になったんだ。その実感があった。
改めて好きって伝えよう。
思いつきの感情を口にしようと、恋人を見る。
蓮さんも俺が言わんとすることがわかっているのか、口元を綻ばせて――
「私みたいな面倒な女、やめておきなよ」
とん、と。
あまりにも呆気なく、美しい日の出を見た山頂から、どぼんっと。夜の海に叩き落とされた。