第1話
1日目はそういう日もあるか。
2日目は体調でも悪いのかな。
3日目になると、なにかあったんじゃないかと不安になってくる。それが週末ともなれば、休日に持ち越したくない気持ちも手伝って、行動に起こさせるには十分な動機になった。
「で、なにかあったんですか?」
「……あの、顔が怖いですよ? あと近いです」
出席簿を盾に三枝先生が仰け反る。
椅子の背もたれがギシッと鳴いて、詰め寄るとまた三枝先生が仰け反るという繰り返し。これ以上下がれなくなって、椅子ごと倒れそうになると、冷や汗をダラダラ流しながら俺の顔に出席簿を押しつけてくる。
「ここは職員室なので、適正な距離を」
「三枝先生が素直になってくれるなら、引き下がります」
「誤解……誤解がすごい」
登校時間よりずっと早い時間とはいえ、職員室には多くの先生たちがいる。それぞれ、授業の準備に勤しんでいるようだが、こっちの様子が気になるのか時折、顔を向けてくる。
その視線に三枝先生は顔を青くしているが、俺は知ったこっちゃない。
「どうしても口を割らないというのなら、その体に直接――」
「わたしの教師人生を終わらせようとしてませんっ!?」
そんな意図はないが、脅しにかかっているのは事実だ。
風邪ですとか、家庭の事情とか。
そうしたわかりやすい理由を最初から言ってくれれば俺だってすんなり帰った。でも、三枝先生は俺が来るなり『あ』とした顔になり、慌てて目を逸らした。
それだけでも十分な状況証拠で、水無月について尋ねたら言葉を濁すのだからもはやギルティ。犯罪だ。
「ではまずその強情な口から」
「一旦! 一旦移動しましょうか!? ねっ!?」
別に俺は職員室でもよかったが、泣きそうになっているので勘弁してあげた。さしもの俺も、一回り年上の女性の泣き顔を見たくはなかった。見た目は十代であってもだ。
「はぁぁああ……死ぬかと思いました、社会的に」
「で、なんかあったんですか?」
生活指導室に移動して、大きな胸を上下させる三枝先生に語気強く問い質す。パイプ椅子に座って脱力する三枝先生に顔を近づけると、そのまま持ってきていた出席簿をまた盾にされる。
黒い盾の向こう側では、肩をすくめて縮こまっていて……なんだか怯える兎を追い詰めているみたいだ。
「……できれば、個人情報の観点からわたしの口からは避けたかったのですが」
俺が引かないとわかったのか、しゅるしゅると出席簿が落ちる。
「風邪とかじゃないんですね?」
「で、あればよかったんですね」
三枝先生は申し訳なさそうに眉根を下げる。
「――退学すると、本人から連絡がありました」
「…………は?」
聞き慣れない単語に、耳を疑った。
◆ ◆ ◆
「いや、退学って」
そんなバカなと、声にならない声が漏れ出る。
フィクションならよく耳にするが、現実ではまずありえない。まだ、停学処分とかなら受け入れられるが、退学ともなると現実味がなさすぎる。
「ドラマの見すぎじゃないですか? そんなん……ありえないでしょ」
「わたしも耳を疑いましたが、本人から連絡があったんです」
冗談を言っている様子はなく、ゆるゆると栗色の髪が左右に揺れる。
「一方的な連絡でしたのでわたしも詳しいことは聞けていません」
「なんで」
そう言ったところで、三枝先生も答えられないのはわかってる。でも、言いたくもなる。
先週、会ったときにそんな素振りはなかった。皇先輩のことが片付いて、それだけ。
水無月が退学を決意するような前兆はなく、いつものように分室で別れただけだ。
なら、土日の間に寮でなにかあったとか?
虐めが頭に浮かんだが、どうにもしっくりこない。そういうのに屈するような性格をしておらず、徹底抗戦するのが水無月という女だ。もちろん、そうした弱い部分を隠していたというのは十分にあるが……考えたところで、わかるはずもない。
「た、鷹宮くんっ? どこに行くんですか?」
背を向けた俺に三枝先生が上ずった声をかけてくる。
どこに行くかは決まっている。
「女子寮」
結局、理由なんて本人に問い質すしかないんだから。
◆ ◆ ◆
三枝先生の静止を振り切って、俺は女子寮の前まで来ていた。
外観は男子寮とそう変わらないが、住んでいるのは女の子だ。普段なら近寄りもしないけど、いまは緊急事態。
登校するのか、門戸ですれ違う女子生徒たちに怪訝な目を向けられても、気にしない。
「――水無月を呼んでくれますか?」
管理人室の窓口に乗り出す勢いで尋ねる。
白髪交じりのおっとりとした管理人は、そんな俺を見て驚いた様子を見せる。目を瞬かせ、怪しむように瞳を上下に動かした。
ただ、制服を着ていたからか、胡乱な目は幾分かマシになる。それでも、いきなりのことに困惑は抜けきっていない。
「水無月さん、ですか?」
突っぱねられても、最悪、無理にでも押し通そうと危ない思考に至っていたが、その心配はなくなかった。
困ったように眉をハの字にして、
「今週の始めには退寮していますけど……?」
「――……」
今日だけで何度、脳を揺さぶられればいんだろうか。
視界がぐらぐらして、いまにも倒れそうだ。
退寮って……なんで? いや、退学するならそうなるだろうけど、だからといってこんなに早く? 実は前々から決まっていたのか? でも、それを隠す理由もないはずだ。だいたい、退学ってなんだ。転校ならまだしも、退学を選ぶ理由がわからない。
答えのない疑問に、頭が痛くなる。
たちくらみがして頭を押さえると、「大丈夫ですか?」と窓口の向こうで管理人が腰を浮かせて心配した声を上げる。頭は痛いし、喉が締まったように呼吸もし辛い。大丈夫ではないけど、朝から押しかけた上、関係ない管理人にこれ以上迷惑はかけられない。
失礼しました、と声をかけて女子寮から出る。
ふらつく頭を押さえながらポケットからスマホを取り出して、メッセージアプリを立ち上げる。
「……っ、出ろよ」
通話をするが、何コールしても出やしない。イライラしてスマホの裏側を指で叩いているうちに、通話が勝手に切れてしまう。着信拒否をされているわけじゃなさそうだが、出なければ同じだ。
『なんでなにも言わずに退学なんてしたんだ?』
挨拶もなにもない問い質すようなメッセージになってしまった。無機質な文字の羅列は見るからに苛立ちがこもっていたけど、いまの俺には気を遣う余裕もなく、既読がつかないことがただただじれったい。
スタンプ連打でもしてやろうかと半ば本気で考えていたら、「鷹宮くんっ」と荒い声の呼ぶ声に顔を上げた。
「お、落ち着きましょう……っ、責めても、なにもはじま……うぇぇ」
「……先生こそ落ち着いてくださいよ」
ここまで走ってきたのか、ぜぇぜぇ呼吸を荒げて膝に手をついている。そのまま倒れてしまいそうなくらい白い顔になっていて、夏の暑さと急な運動でうぇっぷっと口を押さえた。
三枝先生の悲惨な状態を見ると、冷静さが少しだけ戻ってくる。周囲が慌てると、逆に冷静になるとか、そういうのの親戚だろうか。確かに、慌てすぎたなと自己診断しつつ、ポケットからハンカチを取り出す。
「どうぞ」
「あ、ありがと……ございす」
ございすってなに。
そのまま受け取って三枝先生は額の汗を拭う。そうして、ふぅと一呼吸吐いた先生は、しっとりと湿ったハンカチを見て「あ」と声を上げた。
「これは……鼻をかむべき?」
「やってもいいですけど、今度から先生のあだ名はハンカチで鼻かみ先生ですからね?」
「じょ、冗談ですよぉ?」
えへへ、と誤魔化すように鼻かみ未遂先生が笑う。
お約束ではあるんだろうけど、あれを実際にやられたら100年の恋も冷める。だいたい、鼻は出てないだろうに。
「洗って返しますね」と三枝先生は俺のハンカチを懐にしまう。
別にそのまま返してもらってもいいが、汗とはいえ汚したハンカチを返すのは女として抵抗があるだろうと思ったので頷いておく。変な誤解をされても嫌だし。
「寮もいなかったです」
「はい、手続き自体はまだですが、引っ越しはされていますから」
どうやら三枝先生は知っていたらしい。
それなら、先に教えてくれればと思うが、引き止める先生を振り切ったのは俺なのでなにも言えない。相変わらず、水無月から返信はないし、朝なのに途方に暮れてしまう。
「先生はプライベートだから黙ってたんですか?」
「……それもありますけど」
唇を波立たせ、なんとも言いづらそうだ。
「水無月さんから口止めをされていましたので」
「…………なるほど」
となると、返信がこないのもあえてか。
じっとスマホを見下ろす。画面は暗いまま、なにも言わない。頭をガシガシかいたところで、なにも変わらない。
「あの、ですね? 水無月さんはあなたのことを嫌ってとか、そういう理由で黙っていたわけじゃないと思いますよ?」
ただの慰めで、水無月の本心が三枝先生にわかるはずもない。
それでも、どうにかお礼だけを口にして、俺はとぼとぼともと来た道を引き返す。
「ど、どこ行くんですか?」
「分室です」
ひとりで考えたいので。
そう付け加えたら、三枝先生もついてくるようなこともなく、背中に憐れむような視線を感じるだけだった。