第3話
「落ちてこないでください。後始末が大変ですから」
「……もっと心配するべきことがあるでしょうが」
卯木さんが高木に助けられた翌日の早朝。
俺は分室前の大木に上っていた。
朝方に雨が降っていたらしく、地面も幹もじっとり濡れている。体操着にこそ着替えたけど、触れた木肌はぬめっとした部分もあってなんだか気持ち悪い。
「朝からなんでこんな重労働っ」
「頑張ってー」
人が頑張って得意でもない木登りをしているのに、室長の水無月は呑気に本を読んでいる。アニメ映画の小説版らしく、流行りに乗るも悪くないと言っていた。くっそどうでもいい。
かといって、明らかに華奢な水無月に登らせるのもな、と思う良心もあって、俺はどうにかこうにか目的の位置まで登り切る。太めの枝に座って、「はぁ」と息を整えた。
「切り口はどうですか?」
「休みもくれないブラック分室」
インターンで企業体制が発覚したみたいだ。休憩くらいください。そう思いつつ、昨日、枝が折れた部分を確認する。
「腐った……とかはなさそうだけど」
人工的に切り込みを入れたとか、そういうのもなさそうだった。けど、年月で折れたというには、残った部分はしっかりしている。押してみても、簡単に折れそうには見えなかった。
一応、スマホで写真を取りつつ、えっほえっほと木から降りる。
「ふぅ」
「お疲れ様」
汗の浮かんだ額を手の甲で拭っていると、横合いから労いとともにタオルが差し出された。もう一方の手には水のペットボトルもあって、なんだかんだで優しい。
「ありがと」
お礼を言いつつ、貰ったタオルで汗を拭う。
まだ夏前だが、立夏は過ぎた。雨が降って暑さまである5月から6月にかけては、本当に湿気が酷くて体に纏わりつく汗と服が鬱陶しかった。
水を飲んで、水無月にスマホを手渡す。
「見た感じ、高木が狙ってやった線はなさそうだわ」
「だと思います」
受け取った水無月も、折れた部分の幹を写真で確認する。
もしかしたら、高木が用意周到に準備した演出なんじゃないか? という疑念を取り払うための、いわゆる無駄骨前提の潰し作業だったわけだが、予想通り取り越し苦労で終わったらしい。
悲しいような、よかったような、心労的に複雑な気持ちだ。
「準備してたにしても、不確定要素が多すぎです。あんな完璧なタイミングで、誰よりも早く卯木さんを助けるなんてまず不可能ですから」
「じゃあやっぱり、ストーカー説?」
「可能性はなきにしもあらずですが……」
水無月が耳たぶに触れる。
ふにふに。
考えるときの無意識の仕草だろうか。なんか、猫が自分の耳をくしくしするみたいでかわいい。指摘したらやめそうで、なんだか勿体なかったから、そのまま見守ることにする。
「三枝先生が隣にいて、ピンポイントで卯木さんだけピンチになるっていうのも変な話ではありませんか?」
「となると、やっぱり恋愛能力か」
「予想、ですけどね」
一応と、水無月はつけ足す。
「確定させるには本人に訊くしかないだろうけど、素直に教えてくれると思う?」
「本人次第でしょう」
身も蓋もない。
「まぁでも、あんなの目の前でみさせられたら、偶然じゃないって疑いたくなるのもわかるなー」
ぐっと腰に手を当てて、背中を反る。
話を聞いただけではただの偶然にも、ストーカーにも思えた。自分の周りで起きたことを、恋愛能力なんてわかりやすい超常現象に逃げたくなる気持ちもわかるが、当事者だからそう考えただけと。
まだまだ恋愛能力との付き合いが薄い俺たちは、少々認識が甘かったらしい。
「あぁいうことが毎回起こるのは、恋愛うんぬんよりも怖いよなぁ」
恋愛能力で怪我をしたとか、死人が出たというニュースは聞かない。でも、だからいいとはならない。
「もし高木の恋愛能力だとしたら、どんな能力だと思う?」
「そうですね」
また、水無月は耳たぶをふにふにして考える。
「……【運命の人を助ける】でしょうか?」
「運命ねぇ」
にしては、助けられた卯木さんは感謝しつつも、怖がっていたように見えたが。あれが運命というのなら、押しつけ甚だしい。
「恋愛能力で本当に恋なんてできるのかなー」
その答えは返ってこなかった。
落ちてきたのは、葉から滴った雫だけ。