第8話

「おけーり」
「……だらけてんなぁ」

 義姉さんに案内されたリビングでは、実の兄がソファーでだらけていた。きちっとしている義姉さんと違って、実家だからか油断が目に見える。

「もうっ、恋理君がせっかく顔を見せに来てくれたのに、だらしないわよ」
「ははは、たまにはな」
「うちでもだらけてるでしょう?」
「えー? そー?」

 困った人とばかりに、兄に近寄った義姉さんが頬を突く。
 表面上は夫が怠け者で困っているという雰囲気だけど、その実、そうしたやり取りすら楽しんでいるのは長年2人のやり取りを見ている俺は言われなくてもわかっている。
 へー、と俺が呆れの混じる吐息をつくのはもはや定番だ。

「相変わらずラブラブなようで」
「そうでもないのよ?」
「ラブラブでーす」

 正反対のことを言いつつ、その癖、揃って満更でもない顔ではいはいご馳走様。

「部屋に荷物置いてくるわ」
「いってらっしゃい」

 朗らかな笑顔で義姉さんが小さく手を振る。一々、所作がかわいらしい。そういうところが、兄は好きになったんだろうなー、と思うくらいには。

「お昼はまだでしょう? これから作るから、なにか食べたいものはある?」
「義姉さんの作るものならなんでも」
「お? 人の嫁を口説いてのか? お?」
「……うぜぇ」

 起き上がって、ニヤニヤ笑う兄。
 そんなことがあるわけないって、わかっていてからかっている。それが察せられるから、俺の顔の渋面もそりゃより渋くなる。ぺっ、と吐き捨てて、リビングから出る。

「…………はぁー」

 吐いた息は緊張からか、諦念からか。
 廊下の壁に背を預ける。壁がなかったら、そのまま座り込んでしまいそうなくらい力が抜けている。

 小学校からの付き合いの2人。
 当たり前に仲よくなって、自然の流れで結婚した。
 それをずっと傍そばで見てきた俺は――。

「あぁ、やめやめ」

 せっかく帰ってきたのに、なんで滅入っているのか。顔でも洗うかなー、と洗面所に向かおうとして、スマホが震える。メッセージ以外の通知は切っているので、あるとすれば誰かからの連絡。

「普段は禄に鳴らないのに」

 中学時代と比較して寂しくなってのに、頻繁に鳴る。兄とこれくらいだけど。
 元中の誰かな?
 なんて予想は、登録名を見て霧散して。

「室長?」

 という名の水無月からのメッセージに、眉根が寄った。

『このあと、会えますか?』

 まるで恋人の呼び出しみたいで、眉間のシワばかりが深くなる。

  ◆ ◆ ◆

 午後の空は相変わらず曇っている。
 ただ、雲間から微かに陽が差し込んでいて、梅雨の時期だと考えると出かけるには丁度いい天気なのかもしれない。
 天使の梯子がかかり、その光景はいやに幻想的だ。
 駅前でスマホカシャカシャする若者がいるくらいには。

「……うわ」

 後光が差すように。
 雲の切れ間から差し込む光に照らされる黒髪の美女を見つけて、口から出たのは億劫が滲み出る声だった。
 花弁のようにふわりと広がる黒いハイウエストのフレアスカート。ノースリーブの薄い水色のブラウスは軽やかで、うだるような暑さにあっても涼しけだった。

 シックゆえに着こなすのが難しそうなシンプルな組み合わせながら、まるで彼女のために誂えたようなビジュアルだった。
 ……俺はいまからあの美人に話かけるのか。
 待ち人が綺麗な女の子なのは、男にとって誉れだろうが、度が過ぎればそれも凶器になる。

 事実、周囲の人は着飾った水無月にちらちらと目を向けていて、モデルか芸能人かと囁き声が聞こえてくる。このまま帰りたい。そんな気持ちになるが、それはそれで後が怖いし、このままにしたら遠からずナンパされてもおかしくない。

 しゃーない。
 諦めて足を進めると、水無月も気づいたのか陽で煌めく黒い瞳がこっちを向いた。

「待ちましたよ」
「……そこはいま来たところじゃない?」

 この子に定番は通じないらしい。
 腕時計を確認したが、待ち合わせの14時にはまだなってない。10分前で、遅刻どころか早く着きすぎなくらいだ。

「でも、私は待ったので」
「どんくらい?」
「……3分?」
「インスタントかよ」

 それで待ったと言えるのだろうか。
 先に着いていた以上、待つには待ったんだろうけど、5分すら経っていない待ち時間は釈然としないものがある。だいたい、今日、急に誘ってきたのはそっちなんだが?

 女の子とのデートってこれくらい面倒なのだろうか。それとも、水無月だからなのか。
 内心の不平不満は口の端を曲げることで訴えると、唇の端を人差し指で引っ張られた。

「なんですか? その面倒って口は」
「淑女が男の顔に触れるもんじゃないよ」

 それも、唇の端なんてセンシティブだ。

「私を異性として見てるんですか?」

 文句を口にしていた割に、機嫌はよさそうだった。からかっていただけで、本気で怒っていたわけでもないらしい。拗ねたフリというか……やっぱり女の子は難しい。
 このままじゃれ合うのもいいけど、それなりに人通りがある駅前でこれ以上目立ちたくはない。

「行き先は決めてる?」
「お任せで」

 目的地はなし。
 本当になんで俺を呼び出したんだか。デートに誘いたかった、という雰囲気でもないし。水無月の思惑がわからずもやっとするが、準備が無駄にならなかっただけよしとしよう。
 腕時計を見る。まだ早いけど、どうにかなるか。

「なら、俺の行き先で」
「あら? エスコートしてくれるのでしょうか?」

 くすっと大人びた微笑に、俺はさっと手を差し出す。

「どうぞ、こちらへ――お嬢様?」

 ちょっとした悪ふざけだったが、意外と反応は良好で、雪肌に微かな赤みが差した。

「……手慣れてません?」
「まさか」

 肩を竦める。デートまで漕ぎ着けたことはない。だた、場の空気に合わせるのに慣れているだけ。この程度で羞恥を抱くほど、内気じゃないというだけだ。
 こわごわと手を重ねてくる水無月に、俺は「あぁ、そうだ」と思い出したので言っておく。

「似合ってるよ、妖精みたいで」
「………………やっぱり、手慣れてますよね?」

 ないけども。
 逆に水無月がこうしたやり取りに慣れていないのは、その赤みを増した顔からよく伝わってくる。