第1話
「で」
「で?」
俺は古びた木製の椅子を抱くように座りながら、図書室のような静謐が満たす放課後の分室で声を上げた。それに応えたのは、今日も変わらず窓際の本棚の上に座る室長・水無月瑠香で、顔も向けずに声だけで返してきた。
晴れよりも雨が似合う彼女は、薄暗い雲を背負ってページを捲っている。
「“恋愛能力対策分室”ってなにするの?」
「恋愛能力で起こった問題を生徒間で解決するべく設立された、風紀委員から分かれた生徒の窓口になる組織」
「分室そのものの説明じゃなくてね?」
5月も後半になって、関東でもまもなく梅雨入りしそうな今日この頃。
天気予報では来週には梅雨入りするでしょう、なんて言っているが、あくまで予報なので未来はわからない。分室からも見える鼠色が埋め尽くす空を見ると、その予報は当たりそうだなとは思うけど。
俺は来週の天気よりも、差し迫った分室のやることの方が気になる。
「先週からずっとここにいるだけで、なにもしてないなーって」
「働きたいんですか?」
「ぜんぜん」
まったくこれっぽっちも。
俺の心はまだ室員ではなくただの見学者だ。なにも起こらなくて平和だなー、とのほほんとしているのはいいけれど、見学しに来てるのに放課後の間ずっと水無月と話しているか、スマホを弄っているというのもどうかと思う。
これなら、寮の部屋で過ごしているのと対して変わらない。そもそも、見学にすらなってないだろ、これ。
「やるやらないはともかく、なにするかくらいは知っておきたいなと」
「そうは言っても、私も押しつけられただけでよくわかりません」
「あー……島流し」
「いいえ。自分の意思で面倒な集団から離れ、別館という安息の地を手に入れた孤高の美少女です」
「きょうもかわいー」
言ったら、ちょっと照れたのか本で顔を隠した。かわいいところもある。
「知っていそうな顧問は不在です」
もともと集会場なだけあって、2人で使うには広い部屋だ。せめて、顧問が入れば賑わいも変わるのだろうが、三つ編み先生は不在だった。
「テスト期間でひぃひぃ言ってたもんな」
「できれば、こっちでサボりたいとも仰っていました」
「……それは教師の発言としてどうなんだ?」
生徒に人気のある真面目な先生だけど、若返った肉体に引っ張られているのかその言動は若者っぽい。ただ、話の端々に30代特有の悩みや話題がチラついて、この人33歳なんだよなーと実感する。
……どこからか『まだ32歳です!』と聞こえてきたのは、ツッコミが耳慣れすぎたせいだろうか。
「テスト期間ですから、早々問題なんて起きませんよ」
「わーフラグー」
なんて笑ってみたが、現実で立った旗は簡単に回収されはしない。なに読んでんの? 140文字小説。わー現代的ぃ。なんてとりとめもない会話をして、今日も今日とて終わるのかなー、なんて思っていたら、格子窓の引き戸がガラガラ音を立てて開いた。
「よかった。まだいましたね」
入ってきたのは額に髪を貼りつけた三枝先生だ。荒い息を整えていて、ここまで急いできたのが窺えた。
息苦しいのか普段は閉めているシャツの襟元を外している。浮き上がる汗に、微かに覗く鎖骨がエロティック。
「……鷹宮?」
「見てないよ」
冷ややかな声が背筋を撫でる。
そんなわかりやすい視線を向けてたか? そこまでじゃないと思うんだけど、今度からはもう少し気をつけようと思いました、まる。
胸中でふざけている間に先生は呼吸を落ち着けて、「入ってきて」となにやら後ろを向いて入室を勧めている。
誰かいるのか? と思っている間に、見慣れない女子生徒が顔を出した。
「失礼します」
第一印象は大人しそうな少女だった。その声は明るいが、こちらを俯き気味に窺う様子は内気さを感じさせた。背中を丸めているのに強調される双丘はその内面とは正反対でたぷんとしていて……これ以上意識するとまた水無月から刺されそうなので自重しておく。
スポーツはしなさそう。文化系の部活っぽい。
「その人は?」
本棚の上に座ったまま、水無月が先生に尋ねると、彼女は困ったように笑って手を合わせた。
「分室への相談者です。お話を聞いてもらってもいいでしょうか?」
早いフラグ回収。
水無月を見ると、彼女もこっちを見ていて視線が合った。水無月の黒い瞳が横にズレた。その先には椅子があって……あーはいはい座らせろってことね。
俺と水無月は好きに座ってたので、相談を受ける椅子なんて用意してなかった。しゃーなしで顎で使われつつ、椅子だけちょこちょこ近くに並べる。
椅子4つ。向かい合うように並べて、そのまま腰を下ろす。
先生に促された女子生徒は俺の前に座ると、疲れ切ったように息を吐き出した。よく見ると、目の下には化粧で隠された隈が薄っすらと浮かんでいて、疲れが見て取れた。
「ご、ご迷惑とは思うのですが、わたし自身どうすればいいかわからず、困っていて。よければ、お話だけでも聞いていただけませんか?」
「……もちろん、構いませんよ」
どう対応しようかな。
一瞬、悩んだけど、明らかに疲弊している女の子に対して、素で対応するのもよくないだろうと、対人向けの……中学時代に“いい人”と呼ばれていた笑顔を浮かべる。
それを見てほっとしたように胸を撫で下ろす女子生徒に対して、水無月は夏場によく出る黒いアレでもみたような壮絶な顔を浮かべた。
「どうかしたかい? 室長」
「気持ち悪いんですけど、そのエセイケメンみたいな雰囲気どうにかなりませんか?」
「はははー、室長は冗談がお好きだね」
あとで絶対やり返す。
そう決意をしつつ、表面上は笑顔で取り繕ったまま女子生徒に対応する。
「だ、大丈夫でしょうか?」
「もちろん」
いまは。
俺と水無月をおろおろと見て、でも、困っているのは本当なのか、「実は……」と話し始めた。
「ここ最近、危ないところを何度も助けられているんです」
「なるほど。危ないところを……?」
首を傾げる。
聞き間違いだろうか。
確認するように水無月を見るが、彼女も眉間にシワを寄せていて、顔に戸惑いを浮かべていた。つまり、聞き間違いではなく、この子は確かに危ないところを助けられたと言ったわけだ。
なるほど? ……ほど?
「それは……よかったね?」
苦笑する。これ以外になにを言えばいいんだろう。