第3話

 なにもかもにやる気がしなかった。
 退学すると一方的に伝えてからどれだけ経っただろうか。梅雨明けをしたのは知っているけど、日付の感覚がなかった。いまは何日で、何曜日なのか。なにもわからない。

 寮から実家に移ったけど、ベッドはすぐに馴染んだ。入学する前までずっとこのベッドで寝ていたんだから、当たり前の話ではあるんだけど、ここがまだ自分の居場所と認識していることに居心地に悪さもある。
 ベッドから這い出ると、時刻は朝の10時を過ぎていた。

「……ねすぎ」

 しかも土曜日。
 1週間近くも部屋に引きこもっていた計算になる。なにをしているんだろう、私は。
 勝手に寮生活を決めて出ていったのに、勝手に戻ってきて。

 こんな娘は嫌だろうと私自身思っているのに、帰ってきた私をお母さんはただ笑って『おかえりなさい』と出迎えてくれた。その優しさに絆されそうになって、でも、同時にその温かさに胸が痛くなった。

「起き、ますか」

 せめて、これまでの勝手を取り返すくらいの母親孝行をすべきだろう。
 卓上の鏡で軽く身だしなみを整えて、リビングに下りる。

「おはよう、瑠香」

 洗濯を取り込んでいたお母さんが、目元を柔らかくして笑いかけてくる。
 休みで仕事がないから家事をしているんだろう。そういうのこそ帰ってきた私が率先してやるべきなのに、「朝ごはん、できていますよ」と至れり尽くせりだ。
 罪悪感でまた胸が痛い。

「ご飯、食べたら私が畳みますよ」
「大丈夫、あとちょっとですもの」

 取り込んだばかりの洗濯物。これから始めるところなのに、なにがあとちょっとなのか。先に手伝おうかなと足を踏み出そうとして、テーブルのフードカバーに覆われた朝食が目に入る。
 このままの方が片付けが遅れるか。

 面倒ばっかりかけている。自分が情けなくなるのを感じつつ、「……うん」としか頷けず、とぼとぼ来た道を引き返す。
 洗面所で顔を洗って、拭く。

「……酷い顔」

 鏡に映ったのは、濃い隈で化粧して、お化けみたいに青い顔をした女だ。くしゃりと顔を歪めると、同じように鏡の中の女も顔を顰める。自分なんだと認識が強まって、余計嫌になる。

「勝手な女ですよ、君は」

 鏡に触れる。
 強く指を押しつけても、向こう側の女には届かない。だから、言葉をぶつける。

「お母さんの幸せを奪ったのに、どの面下げて戻ってこれたんですか?」

 答えは返ってこない。代わりに、心の底からどろりとあふれてきた。
 中学生のとき、お母さんの再婚話が上がった。

 最初の父親は私が小学生のときに離婚していて、あとから理由を知ったのは父親の浮気が原因ということ。女手一つで私を育ててくれた優しいお母さん。父親という存在にいい印象なんてなかったけど、それでもお母さんが幸せになるならと笑顔で受け入れた。
 でも、ダメだった。

『――僕はお母さんよりも君が好きなんだ』

 中学2年生。
 幾度か顔合わせしてもうすぐで再婚という時期の出来事だった。申し訳なさそうな、けど、熱を込めた目はよく覚えている。――そのときの喪失と、激情も。

 最初から私を狙っていたのかはわからない。でも、お母さんが再婚しようとしていた男は私を好きになり、再婚の話はなくなった。
 ふざけるな、という激情があった。
 私のせいだ、という罪に意識も一層強くなった。

 あれだけ大好きだったお母さんとギクシャクしてしまい、顔を合わせるのも辛くなってしまった。だから、高校は寮のあるところを選んで、逃げるようにお母さんと距離を置いた。
 恋が嫌いになった。

 だって、そんなものは幻想でしかない。もしあるのなら、浮気なんてこの世に存在しない。だいたい、そんなものがあったら、お母さんと離れることなんてなかった。なんで私が。悪いことなんてしていない、悪いのは恋だ、浮気した父親だ。軽薄な再婚相手だ。私はなにも悪くないのに。
 だというのに、世界は恋を肯定した。

 ――恋をしなさい!

 それも神のお墨付き。
 最初はバラエティかなにかだと思っていたけど、世界は私の望まない方向に変わってしまった。
 恋愛を肯定する世界。

 なんでなんでどうしてどうしてどうしてっ。
 意味がわからない。恋愛能力チートってなんだ。そんなものがあるはずない。
 だから、私は否定しようとした。
 私に与えられた【――――――――】を使って。
 そう、しようとしたのに……。

『瑠香? なにかあった?』

 廊下から聞こえてくるお母さんの声で我に返る。
 どれだけそうしていたのか。重症だ、と服の襟をくしゃくしゃに握りしめながら、「なんでもありません」と返事を先に行かせて戻る。

「お買い物、頼んでもいい?」

 朝食を食べ終えたタイミングだった。
 待っていたとでもいうように、テーブルの対面に着いたお母さんが手を合わせてお願いしてきたのは。実家に帰ってから初めてのことで、戸惑いはするけど断る理由はない。
 むしろ、お母さんを手伝えるならなんだってするつもりだ。

「もちろんです」
「本当? ありがとう」

 嬉しそうに口元が綻ぶお母さんに、胸の痛みが少しだけ引いていく。

「これ、お財布と買い物メモ。お金は多めに入れてあるから、余ったら喫茶店とかレストランとか、好きに使っていいからね?」
「寄りませんよ」

 小さく息を吐く。それは呆れの伴うものだ。
 ずいぶんと用意周到だ。好きに、というのはつまり寄っていけということで、気分転換でもしなさい、というお母さんの心遣いなんだろう。買い物メモを見る限り、嘘ではないんだろうけど、建前なのはすぐにわかった。

 心配させてる。
 そう思うと、心臓を握りしめられたような痛みがあって、笑うしかなかった。

「いや、そうですね。寄ってくかもしれません」
「そうしなさい」

 お母さんの優しい笑顔で、目に痛い。
 ――いってらっしゃい。
 玄関で見送られて、そのまま門を出ようとした。夏の日差しに晒されて、熱くなった門を押して敷地を出ようとして愕然とした。

 門の前。
 道路を挟んだ向こう側にいる男の子を見て。

「やっと出てきた。炎天下でただ待つってのも辛いんだが?」

 いつもの調子で悪態を吐ついて駆け寄ってくる鷹宮に思わず門を閉める。
 どうしてなんでここにいるの?
 荒らし海に小舟で遭難するような混乱の渦中にあって、鷹宮だけはどこまでも自然で、だからこそ私の現実から浮き上がっていた。