第7話
その週は音沙汰もなく、何事もなく。
分室の窓からしとしとと降る雨を眺めている毎日だった。水無月も皇先輩たちのことを話題に出すこともなく、本を捲る乾いた音が耳を掠めていく。
そんな静かな日々の翌週だった。放課後の分室に皇先輩が顔を出したのは。
「おはよう、瑠香くん、恋理くん」
いつかと同じように眩しい笑顔で、皇先輩は何事もなかったようにひょっこり現れた。胸中でほっと息を吐いて、けど、先輩の顔を見てぎょっとしてしまう。
「あの……皇先輩、大丈夫ですか?」
「ん? あぁ」
俺の驚きに反して反応は薄く、言われて気づいたというように目の下に触れた。
真っ赤になって腫れた目元。
泣き腫らしたのが丸わかりで、王子様フェイスが台無しだ。それでも、というかむしろ、醸し出す色気は強くなっていて、凄いなイケ女とその色気に当てられる前に感心してしまう。
赤い目尻を指先でなぞって、笑う。
「振られてしまったね――クラゲに」
朗らか告げる皇先輩になんと言えばいいのか。
クラゲと呼んでいるから、きっと白浮先輩は自分が海月クラゲだと告白したんだろう。その上で、皇先輩の告白を断った。腫れた目はその結果で、それを招いた一因の俺としては、上手くいかなかったことに小さくない罪悪感を感じてしまう。
白浮先輩を探さなければとか、背中を押さなければとか、そんなことを。
もちろん全部後の祭りで、いまだからこその後悔だけど、赤く腫れた皇先輩の目元を見ると余計にそう思ってならなかった。そんな俺を見て皇先輩は「違うよ」と苦笑する。
「キミのせいじゃない」
「でも、振られたって」
「どうあれキミのせいではないけど、そうじゃないんだ」
向かい合う形で椅子に座っている皇先輩が、目元と同じように赤くした頬に触れる。
「……いまはまだ、幼馴染としていたいってね」
振られたというより保留かな? と、皇先輩は快活に笑う。
「数年ぶりに会って、いきなりだったからね。クラゲの体のこともあるし、ボクが性急すぎたんだ」
「そっすか」
少しだけ肩の荷が下りる。
元鞘に戻った、とまでは言わないけど、幼馴染として再会することはできた。それなら、またこれからと思える。
「まぁ、振られて今日までずっと昨日まで泣き通しだったんだけどね!」
「……そっすか」
ははは、と大笑いすることじゃない。
こっちの良心を試しているのだろうか? この人は。俺の心は繊細なので、ガラス細工のように慎重に触れてほしかった。痛む胸を抑えていると、皇先輩が俺を真っ直ぐ見つめてきた。
「ありがとう、クラゲと再会できたのは恋理くんのおかげだよ」
その夏の青空のような涼やかな瞳に、俺は頬をかく。
見た目以上に、こういうハッキリと気持ちを言えてしまうところがモテるんだろうなと思う。
「もちろん、瑠香くんもね」
ニッコリ微笑む皇先輩に、水無月はこっちを見もせず読んでいた本ごと手を振る。
タイトルは『運命はあるのか』で、哲学的な雰囲気がある。興味なさそうな素振りをしているけど、水無月もなんだかんだ気にしていたのが窺えてちょっと笑う。
「なに?」
「べつにぃ」
薄目で睨まれるが、言わぬが花という奴だろう。
むすっと不満そうに唇を結ぶ室長は置いておいて、気になっていたことを尋ねてみる。
「白浮先輩は女になっていたわけですけど、いまでも好き……なんですか?」
容姿が変わるだけでも大事件なのに、そこに性別までとなるとガワは完全な別人だ。中身が大事というのには俺も理解を示すが、かといって外見が一切恋心に関与しないとは思わない。
好意はあれど、それが友情になることもあるわけで。
「――もちろん」
そんな俺の懸念を、皇先輩は自信に満ちた顔で否定する。
「ボクはクラゲのすべてが好きだ。以前の姿も大好きだけど、女性になったいまも愛している。ボクの心に、かすかな陰りもありはしない」
胸に手を添え、堂々たる宣言に流石としか言いようがない。
男だ女だなんてのはもはや超越していて、彼女は『クラゲ』に恋をしているんだろう。その格好良さが、その想いや関係が羨ましい――。
「いまの姿はとても愛らしいしね。幼さすら感じる顔立ちなのに、暴力的な胸は同性であっても見入ってしまう。思わず触れてしまいたくなるが、いまはその時期ではないからぐっと我慢だ。クラゲはまだ女性であることを受け入れられていないからね。でも、いつかは一緒にお風呂に入ったり、洗いっこもしたいな。かわいい服も着せてみたいし……あぁ、夢が広がるね!」
「………………そっすか」
――羨ましいと思ったが、気のせいかもしれない。
火照った顔で、逆上せたようなことを言い続ける皇先輩。見た目が美人だから許されているが、その言動は犯罪に片足どころか肩までどっぷり浸かっている。
この姿を見ると、どの未来であっても白浮先輩は手遅れだった気がする。いずれは見つかり、捕まったんだろうと思わずにはいられない。皇先輩には冥福を祈ろう。なむ。
◆ ◆ ◆
泣きっ面で、でも意気揚々と皇先輩が帰ったあと、分室に客はなく、そのまま閉店と相成った。
学校のチャイムが鳴る。
時刻はちょうど18時。明日には7月に入るこの時期は、陽が長く外はまだ明るかった。遠くから部活動の喧騒が聞こえてきて、1日がまだ終わっていないと思わせる。
「そろそろ帰ろうぜー……水無月?」
帰る準備は整ったというのに、水無月は窓際の本棚の上に座ったままだ。
一応、彼女の横には鞄があって、いつでも帰れるようにはなっている。ただ、動きがないように見えて、その目は雲間から差し込む茜色の日差しの中にあった。
その腕の中には大事そうにさっきまで読んでいた本を抱えている。
「ねぇ」
呼ぶ声にこめかみがぴくりと反応した。
「恋愛能力による恋は、偽物だと思いますか?」
それはいつかした問答だった。
そのときは偽物だと、残念ながら断じたけど、いまは考え方が変わっている。
「どっちも、かな」
どっちつかずな答え。
でも、ここ数ヶ月で恋愛能力にまつわる事件や相談事に関わって、俺が出した結論だった。
「……そう」
同じ軌跡を歩んできた水無月の結論も、きっと似たようなものだろう。
ただ、違う答えを求めていたのかもしれない。その声に酷く冷めていて、どこか黄昏れのような寂しさがともなっていた。
このときの俺は一時的な感傷だと思っていた。
――水無月が分室に来なくなるまでは。
◆第3章_fin◆
__To be continued.