第6話 ふたりだけの秘密のやり取りは楽しい

 外に出るとまだ陽は暮れていなかった。
 6月。春と夏の境というには、やたらめったら暑く、夏至も間近で陽が長い。

「蒸し暑」
「曇ってるだけマシでしょ」
「その分湿気すごいだろ?」

 ビルから出てきた灰野に反論するけど、なんかやれやれみたいに肩を竦められた。態度悪いなー。

「まだ、さっきのこと根に持ってるのか?」
「持ってないですけどー? からっからに乾いたサバサバ系ですのでー?」
「自覚あるのな」

 自称サバサバ系とか、ねちっこい奴代表みたいなところあるだろ。比喩を間違えたと自分でも思ったのか、八つ当たりでシャツの裾を引っ張ってくる。

「はいはいごめんね俺が悪かったって」
「愛がな……」

 灰野が躓くように途中で止めた。

「……んでもない」
「ぷふ」

 その反応に思わず吹いたら、むーむー! 唸ってシャツが破けそうなくらい引っ張ってくる。

「悪いって。さすがに意地が悪かった」
「ココア買ってきて」

 ネカフェ出てもパシられるのか、俺は。

  ◆ ◆ ◆

「じゃあ、また来週」

 別れを惜しむなんてこともなく、軽く手を振って灰野と別れる。灰野の手にはしっかりと俺が買ったココアが握られていて、ちょっとだけやるせない気持ちになる。

「俺も帰る……って、わけにもいかないかー」

 冷蔵庫の中はほとんど空。
 スーパーに寄って、材料を買わないといけなかった。

  ◆ ◆ ◆

「ただいまー」

 言ってみたものの、声は空洞に吸い込まれるように消えていった。帰ってきたときには周囲も暗くなっていて、部屋の中も真っ暗だ。靴もない。スマホをポケットから取り出す。暗がりだから、やけに光が目に強かった。

「……今日も残業かな」

 メッセージはなし。
 いつも通りで、なにも落胆することはなく、ただただ納得するだけ。

「あ、醤油ヤバい」

 手を洗ってから、冷蔵庫に野菜とか肉とかを詰めてたら、買い忘れに気づいた。

「あー、どしよ」

 今日は肉じゃがにしようと思ってたんだけど、足りるかこれ。刺身とかで使う袋の醤油があったはずだから、それと合わせればワンチャン。きっと、足りる……はず。

 そう信じて、汗をかいたので風呂に入る。髪はー……あとでいっか。ドライヤーを棚上げにして、さくっと調理にかかる。カチ、カチ、とリビングの時計の音がやけに耳に響く。
 隣の部屋の子どもの声が、調理の音を抜けて聞こえてくる。

「できた」

 煮込む時間は長く、気づけば21時を回っていた。買い物も行ったし、しょうがないよな。そう思いながら、料理をテーブルに並べる。スマホを確認。通知は……やっぱりなし。

「……いただきます」

 挨拶に返事はない。
 料理を取り分けたタッパーを、対面の席に積み上げる。冷めたら冷蔵庫に突っ込んで、『今日の夕飯』と付箋でも貼りつけておけば、今日のやることは終わりだ。

 テレビをける。
 目的はない。別に面白くもない。バラエティの笑い声をBGMにして、図書室から借りてきた小説を読む。
 今日も今日とて、変わらない日常。

  ◆ ◆ ◆

 翌週の月曜日。
 人並みに登校を億劫だと感じる感性があって、教室に着いてもだらけていた。本を読む気も起きず、だらりと力を抜いて背もたれに体を預ける。

「灰野さん」

 鐘は鳴ってない。
 始業にはまだ早いのに、担任の先生が廊下から顔を出している。呼びかけられた灰野は微かな驚きを滲ませつつも、すぐに笑顔で「おはようございます、先生」と丁寧に挨拶をして近寄っていく。

「ふむ」

 珍しい……わけでもない。
 あれでも学校では優等生なので、先生に呼ばれることはままある。だから、お説教というわけでもないんだろう。灰野に声をかけた担任も、その表情は和やかだし。

 気にはなる。
 でも、どうでもよくもある。興味具合としては、道端に1円落ちてるなーくらいで、屈んで拾うほどじゃない。

「ぽけー」

 天井を仰いで、シミでも数えてるか。
 ひとつ、ふたつ。
 パタリと机に倒れた。

  ◆ ◆ ◆

「あれ」

 今日はネットカフェの日じゃない。
 だいたい週末の金曜日で、他の日は突発的に行くとかそのくらい。明確にルールはなく、その日の気分で決まることの方が多かった。

 あと、残金。月末ほど厳しいのはなにも社会人だけじゃない。

「……普通に言えって」

 机の中にメモ紙が入っていた。
 別に古風なラブレターとかそういう甘酸っぱいものじゃない。なにも書かれてない白い紙。いたずらっぽく見えるが、そんな仲のいい友達はいない。悲しくなるけど事実で、これはひとつの合図だった。

 今日、わたし灰野はネカフェ行くから。

 そういうサイン。

「まぁ……いいけど」

 灰野はこういう密やかな遊びが好きなのかもしれない。否定するようなことを言ってなんだけど、俺だって少し楽しい。
 周囲に隠す意味はない。
 でも、隠れてやっているのが楽しかった。子ども染みていると言えばそれまでだが、楽しいことって大人よりも子どものときの方がずっと多かったはずだ。

「どうするかな」

 絶対に来いという約束ではない。
 だから、行かなくてもいいんだけど……いっか。どうせ用事もないし、わざわざ合図を残していったということは、そういうことなんだろう。
 紙を弄びながら、軽い足取りで教室を出る。

  ◆ ◆ ◆

 420番。通路の一番奥の部屋。
 受付で部屋を選べるから、空いてればだいたいこの部屋だった。受付を済ませて、入口横のリーダーにカードキーを読み込ませて、

「遅い」

 開けたら、なんか不機嫌そのものの灰野が鎮座していた。

「開口一番、遅刻みたいな扱いされることある?」

 いつもは電池が切れたようにフラットルームのシートにぐでーっと寝転がっているのに珍しい。スカートの裾は相変わらず怪しく、膝小僧が顔を出しているがそれはどうでもよくって。
 わー、面倒な予感。
 もはやそれは予知で、さっそく来たことを後悔しそう。

「あー……お疲れっした」

 帰ろう。

「逃がすわけないでしょ」

 両足が伸びてきて、ガシッと掴んで二の足をホールドされた。こんぐらい簡単に抜け出せる。そう思ったが、近くの部屋のドアが開いて、条件反射でドアを閉めてしまった。

「観念したか」
「…………」

 そうじゃないが……このバカみたいなやり取りを見知らぬ人に見られるよりはマシだと思っておく。知っている人に見られていいのかと問われると、そんなわけはないが。
 はぁ、とため息をいて、フラットシートに腰を下ろす。

「で、なにがあったの?」

 訊きたくないけど、訊かないと灰野の機嫌が晴れそうにないので訊く。
 そしたら、灰野は伸ばした足を畳んで膝を抱えて、これ以上ないくらいしかめっ面をした。美少女が台無しですよ灰野さん。

「……生徒会長に立候補しないかって、先生に言われた」
「あ、そう」

 生返事したら頭から突っ込んできた。
 そのまま腰に手を回してきて倒される。

「興味持てー!」

 知らんて。

  ◆第1章_fin◆
  __To be continued.