第2話 放課後の教室でふたり切り、異世界の話を令嬢と

 日本のことを知っていたから驚いた――というわけではない。

「アニス様に話したことはありません……よね?」
「さー? どーでしょー」

 目元を緩ませて、机に乗り出した体を起こす。その際、年齢に対して育ちすぎている胸が揺れて、つい目を伏せてしまう。反応しないのが一番なのに、どうしても意識してしまう。

「せんせー、さようならー」
「あ、はい。さようなら」

 帰っていく生徒を見送る。
 話している間に教室の生徒たちは誰もいなくなっていた。残ったのは僕とアニス様で、少しだけほっとする。アニス様と他の生徒に対する態度は異なる。だから、アニス様の目がある中、生徒たちの前でどう振る舞っていいかわからなかった。

 肩の力は抜けたけど、警戒心のような緊張感があった。

「ね? 先生?」

 自分のかわいさを自覚してるかのように、小首を傾げられて、うっ、となる。
 話すこと自体はいいんだけど。
 ただ、なんで日本の話を僕がしていたのを知っているのかは気になる。

『――少し、別の世界の話をしましょうか』

 初めてこの教壇に立ったとき、生徒たちにそんな日本の話をした。
 それは僕に興味を持ってもらうためで、生徒との距離を縮めるためのもの。勉強を教えるのに仲のよさは必要ないなんて言う人もいるけど、僕としては先生に関心を持っているからどうかで効率は変わると思っている。

 昔は生徒との年齢差もあって、話を合わせるのにも四苦八苦していたものだ。でも、この世界に来てからは、日本の話をするとだいたいの人は空想と笑いつつも話に耳を傾けてくれた。

 細部まで作り込まれているからかな、と思っている。

 世界観で曖昧な部分が少ないから、投影しやすいのかもしれない。飛行機の話をすると、『鉄の塊が飛ぶわけないじゃん』と笑うが、それでもどういうものかは気になるみたいで、なんでなんでと訊いてくる。
 そうした質疑応答は勉強にも繋がっていて、別の世界日本の話は鉄板ネタだったりする。

「……まぁ、構いませんが」
「やったー!」

 と、両腕を上げて殊更アニス様は嬉しそうだ。
 やたら喜んでいる彼女に僕が『なんで知ってるの?』と追求して水を差すのも悪いか。いつでも訊けることで、知らなかったところで不都合があるわけでもない。

 微かな疑問を残しつつも、日本の話を始める。

「どんな話がいいでしょうか?」
「なんでもいいよ」

 ニコニコとなかなかに困ることを言う。
 なんでも困るのは、食事だけでもないようだ。でも、どんな日本の話をしてほしい? と尋ねたところで、アニス様から知らない世界のこと。訊かれてもわからないか。

「なら、そうですね……」

 考えて、教室を見渡す。

「日本の学校の話でもしましょうか」
「お、いいねー」

 思いつきだけど、アニス様の反応は良好だ。そのことに安堵しつつ、さて、どこから話そうかと、また考える。

  ◆ ◆ ◆

 家の扉を閉める。
 そうすると、ようやく息をけるように体の強張りが緩む感覚があった。帰ってきた家は静かで、現代日本と比べると拙さがあり、ひっそりとしていると不気味さもある。

 ただ、自分の領域という認識があって、扉1枚隔てただけでも意識の違いは明確だった。

「……楽しそうだったな」

 授業中もだけど、日本の話をしてからは感情の発露は如実だった。
 話したことは全然大したことはない。
 子どもは全員学校に通うとか、給食があるとか。
 日本に住んでいれば当たり前のことを、アニス様は『凄いなぁ』って、瞳を輝かせて聞いてくれた。

「ちょっと……話しすぎた、かも?」

 気分が乗ったというのもある。
 けど、それだけじゃなくて、アニス様が喜んで聞いてくれるから、その顔を見られるならもっとという気持ちで口を衝いてしまった。それは悪いことではないけど、感情に身を任せたようでいまさらながらに恥ずかしくなる。

 熱い頬を冷ますように水差しからコップに水を注いで飲む。生暖かくて、まるで体温は高いまま。

「次はなにを話そうかな」

 だから、残った熱は次へと思考を動かす。
 アニス様の喜ぶ顔を思い出して、また……と思ってしまう。
 そんな自分を意識すると、顔は熱くなるばかりだけど、それでも、彼女が喜んでくれる顔を見たいから、と記憶にピッケルをぶつけていく。

「他の生徒みたいに飛行機の話はどうだろう? それとも、女の子だからファッションの話とかの方が喜ぶかな?」

 時間も忘れそうになるくらい没頭しようとしたとき、コンコンッと扉が叩かれた。またアニス様か? と、扉の向こうの人を想像したけど、「郵便でーす!」という元気な声に、あぁ、とその正体を知る。
 同時に、少しだけ残念に思ってしまった自分がいて、よくないと頬を打つ。

「お疲れ様です」
「お疲れっす!」

 元気な子だった。
 村の人はそう多くない。郵便の子とも顔見知りで、知った仲だ。「お手紙でーす!」と、やたら元気な声を出して、差し出したものを受け取ると、手を大きく振って次の届け先に走っていく。

「ではまた!」

 手紙の入った鞄を肩にかけて、その背中はすぐに小さくなる。元気だなー、とそんな感想を抱いてから、視線を手元に落とす。…落として、テンションまで落ちた。
 封筒にも入っていない、折りたたんだだけの手紙。宛名である僕の名前と一緒、丁寧なことに差出人の名前まであった。

「…………母さん、か」

 影が落ちる。
 見上げると、太陽に小さな雲がかかっていた。遮った雲が陽を通り過ぎるまで、僕は仰ぎ続けた。

  ◆ ◆ ◆

「――実家に帰るの?」

 先日届いた手紙についてアニス様に報告すると、その大きな瞳をパチクリと瞬かせた。
 そんな驚くことか?
 首を傾げたくなるけど、いま尋ねて会話を切る意味はない。

「はい、母から一度顔を見せるように手紙が届きましたので」
「お母様から」

 なんか……好きって言われている相手に、自分の母親を『お母様』と呼ばれるのには面映ゆさにも似た羞恥と抵抗があった。

「実家は同じ領内ありますので、そう遠くはありませんが、数日は空けることになります。その間は家庭教師の仕事をお休みさせていただきたいのです」
「それは構わないけど……お父様にも?」
「伝えてあります」

 ここに来る前に、そのことは領主様にお願いしてきた。
 文句のひとつくらい言われる可能性も考えていたが、むしろ領主様は『孝行してきなさい』と笑顔で許可をくれた。お優しい方だ。現代ほどでないにしろ、法整備はされている。物語のような圧政はあまり聞かないが、それでもあるにはあるらしい。

 選民主義も残っていて、自分たちの領主様があの方だったのは幸運なのだろう。

「ご両親に会うにしては浮かない顔だね?」
「そんなことは……」
「ないの?」

 押し黙ってしまう。これでは正解と言っているようなものだ。言い訳をしようと、口を開けて、すぐに閉じる。上手い言葉が見つからない。自分でも挙動不審とわかるけど、アニス様の碧眼はあまりにも透き通っていて、自分の醜い部分が見抜かれているようだ。視線を外して、二の腕を掴む。胃がやけに重く感じた。

「そっかー」

 重い沈黙を打ち破ったのは、アニス様のそんな軽い言葉だった。もしかすると、重く感じていたのは僕だけで、彼女にとってはそうでもないのかもしれない。
 アニス様が椅子から立ち上がる。
 すっと背を伸ばして、鼻先がくっつきそうになって、ひゃいっと悲鳴を上げそうになった。

 上品な花の香りに鼻腔をくすぐられながら、ニコッとアニス様は笑った。

「なら、わたしもついていくよ」
「は、や……え? ど、どこにでしょうか?」
「どこにって……決まってるでしょ?」

 ちょん、と胸を指で触れられる。

「先生の実家、だよ?」

 領主の娘を連れて帰ったら、両親共に心臓が止まるんじゃないだろうか。いままさにアニス様のせいで僕の心臓が止まりかけているのだから、その可能性は高かった。