第2章

第1話 教え子の令嬢とお酒を飲む

「せっかく、先生の家に上がれると思ったのに」

 土と砂利の混じった村の道。
 その上を歩いていると、アニス様が頬を膨らませて抗議してきた。当然、そのつもりで来たんだろうとは僕も思っていたけど、だからといって安易に女性を上げるほど警戒心は緩くない。

「さすがに、伯爵家の令嬢を男がひとり暮らししている家に上げるわけにはいきません」
「へー。なら、ただの女性は上げてるんだ?」

 揚げ足を取るような返答だった。
 半歩、距離のあった隣を歩いていたアニス様が、すっとその隙間を埋めてくる。服の裾が掠める。その近さが気になって半歩横にズレると、また彼女が詰めてくる。

 逃げて、追われて。
 それを繰り返していると、少し盛り上がった道のへりを踏んで転けそうになった。かくん、と膝から崩れかけると、あはは、とアニス様は楽しそうな声を上げた。

「逃げすぎるのもよくないってことだね」
「……捕まるでしょう」

 物理的にも、社会的にも。
 なにが楽しいのか、道の先、沈んでいく太陽を追いかけるようにたったと駆けていく。貴族の令嬢にしては軽装で、弾みで波打つスカート、白い足が目に焼きついてしまう。

 村娘にしては気品があって、貴族令嬢にしては屈託がない。

 僕の自宅に来るまでは馬車だったらしいけど、それを帰して、従者もつけず一緒に村を歩いているのは不用心ではないのか。田園が広がる田舎の村だ。事件らしい事件なんて、村の畑に兎が入ってきて、子どもが捕まえたとかそんな程度。テレビのような情報伝達手段がないので、他の地域の凄惨な事件を耳にすることもない。

 だから、余計に危機感というのが育たないのかもしれない。それは悪いことのようで、良いことのような気もする。

「でも、もう少し警戒心を持ってほしいなぁ」
「なにか言った? 先生」

 アニス様が振り返ると、銀の髪がふわりと広がった。陽を吸い込んでキラキラと輝いて、星の川を思わせた。
 僕は首を左右に振って、なんでもない、と口にして、目的地を通り過ぎそうになるアニス様を手招く。ちょこちょこと小さく足を動かして戻ってきた彼女が、こてん、と首を傾げた。

「……ここ?」
「はい」
「民家に見えるよ?」
「一応、パブですね」

 言いたいことはわかる。見かけは周囲の民家と大差なく、お店というには背景と一体となっていた。掲げた看板にはビール樽が描かれているけど、古びて掠れ、ひと目見てパブだと理解する人は少ないだろう。
 近所で飲める場所なんてこの1軒だけだから、案内がなくても困りはしない。だから、店主も看板を付け替えたりしないんだろうと思う。

「へー、なんかいいね」
「いいって褒めれば、なんでも許されると思ってます?」
「まずはいいところ探さないとね!」

 少々意地の悪い質問を笑顔で返されて面食らう。その考えは正しいことで、僕もそうあれたらとは思うけれど、実践できる人がどれだけいるのだろうか。
 眩しいものを見るように目を細める。と、アニス様がそのまま正面の入口に歩き出して慌てる。

「じゃあ、入ろう」
「待ってください」

 咄嗟に静止する。
 振り向いたその顔には『なんで?』と書かれていて、まるで理由がわかっていないようだった。いや、なんでじゃないよ。

「横にも入口があるので、そちらからです」
「えー? 正面から入りたいなー」
「あの……伯爵家のご令嬢でしたよね?」
「うん、そうだよ」

 平然と頷く。自覚があるなら、もう少し気配りをしてほしい。子どもみたいな素直さを悪くないと思いつつも、やっぱり戸惑うこともある。
 領主の娘がパブに来るとか、どうなのよ。

「それは今度にしてください」

 できれば、僕とは関係ないところで。
 そう思うも、頭に不安は残ったままだ。いずれ連れて来られそうな、そんな予感があって、予知めいたその勘が当たらないことを切に願うばかりだ。

 正面から外れて、建物の脇まで歩く。そこには別の入口があって、勝手知ったるというほどではないが把握はしている。後ろにちょこちょこついてくるアニス様の気配を感じつつ、扉を開ける。

 扉の上のベルがからんっと乾いた音を鳴らした。
 微かな煤の匂いと、エールの香りが鼻につく。そろりと奥を覗くと、ベルの音で気づいたのか、パブの主人が顔を出した。体格のいい、無骨な主人はひとつ頷いて見せるとすぐに戻っていった。

 空いている……ってことだろう。

 狭い通路を数歩進んだ先に、部屋の扉があった。開けると、人はおらず、胸を撫で下ろす。

「ここがパブなんだー」
「アニス様っ、待っててと」
「言ってないよね?」
「……ませんね」

 僕が開けた出入り口から、ひょっこり顔を出したアニス様がにんまり得意げな顔をする。言ったところで言うことを聞いていたかは疑問の余地はある。が、言っていなければ、その可能性すら確かめようもなく、僕が悪い、となる。

「こじんまりとしてて、秘密の空間みたい」
「実際、その通りですから」

 パブにある小さな部屋。
 酒飲みの男性客が多いけれど、パブは村の社交場としての一面もある。女性にも使ってほしいから、と用意されて部屋は小さいながらも椅子と卓が用意されている。

「向こうは賑やかそうでいいなー」

 壁の向こうから賑やかな声が聞こえてくる。
 仕事を終えた男たちが、カウンター席の周辺でさっそく飲み明かしているんだろう。僕も時折混ざるけれど、女性のいない男衆の話は下世話なものも多く、そこは前世の日本と大差ない。

「どうぞ、アニス様」
「お、紳士だねー」

 席を勧めると、ひょいっと座る。横の長いベンチは2脚あって、僕は対面に座ろうとしたのだけれど、ぽんぽんっとアニス様は隣の座面を叩いて示した。

「紳士様もお掛けになってください」
「……失礼します」
「あ、ズルい」

 誘いに乗るわけにもいかない。
 対面に座すると、やっぱりというかその柔らかそうな頬を小さく膨らませた。なにがズルいのか。未練がましく叩いていたベンチを指先で弄ぶアニス様からそっと視線を逸らすと、主人が顔を出した。

「適当に持ってくるが、それでいいか?」
「はい、よろしくお願いします」

 その視線が一瞬、アニス様に向く。
 彼女が顔の横で小さく手を振ると、主人は「ごゆっくり」とだけで残して後にした。

「仕事人って感じの人だね」
「無口な方ですから」

 それに口も固い。
 だからこそ、信用もできて、アニス様をこの場所に連れてこられた。でなければ、すぐにでも店にたむろっている呑兵衛たちに話がいって、絡まれていたことだろう。

 そうなるくらいなら、僕の部屋に上げていたはずだ。彼女にとってどっちがよかったかは……まぁ、どうでもいいか。はぁ、と疲れを吐き出すように息を吐く。

「先生のお部屋に上がるという目的はまた今度果たすとして」
「……しないでください」

 というか、そんな目的で来たのか。怖すぎる。
 頬を引きらせていると、アニス様が前のめりになった。村娘が着ていそうなブラウスが窮屈に押し上げられて、目のやりどころに困ってしまう。

 顔を逸らすと、彼女に向けた耳にくすりと笑う声が届いた。耳たぶまで赤くなっていそうで、耳裏を撫でる振りをして覆い隠す。

「今夜は先生と初めてのお酒……だね?」

 そう誘うように、艷やかな声を出し、アニス様は頬を緩めた。

  ◆ ◆ ◆

 ――かんぱーい。
 と、杯を交わしたところまではいい。いや、庶民の飲み方ならいいのかもしれないけど、貴族のご令嬢がコップをごちんっとさせるとか、やっていいのかはともかく。

 それが些末になってしまうくらいには、よろしくない状態になっていた。

「えへへ~、せんせぇ……のんでるぅ?」
「………………近いです、アニス様」
「アニスって呼んで?」

 くりっとした青い瞳は濡れたように潤んでいる。
 微かに開いた唇は濡れていて、頬は薄っすらと赤らむ。しれっと隣に座ってきて、寄りかかってくるアニス様は、普段から色気があるのに割増で――お酒弱いなら先言ってっ!