第3話 婚約者がいても先生が好き
「え? 知ってるよ」
きょとん、とアニス様にかわいい顔をされてしまう。
なにを当たり前なことを言っているんだろう――そんな顔をしていて、訊いた僕の方が変なことを訊いたみたいで、『あ、そうなんですね』と引き下がりそうになる。
机に座ってアニス様はこっちを見上げてくる。その碧眼は冬の空のように澄んだ青をしていて、季節を勘違いしそうだ。
「だから言ったでしょ? 好きになっちゃってごめんね? って」
「そう、でしたか」
「そうなんだよ」
口元に手を添えてくすくすと笑みを零す姿は上品で、貴族の令嬢というのを実感する。だた、婚約者がいるのに異性に好きと伝えるのは不純だと思う。
それなのに、どうしてこんなに悪びれていないのか。貴族だと愛人は普通だったりするのだろうか。貴族の常識には疎く、もしかすると『浮気は文化』みたいな考え方があるのかもしれない。
「すっごく困った顔してるね」
「困ってますから」
「かわいい」
「……いい歳した成人男性ですよ」
なんでこうもかわいい判定されるんだろう。
確かに顔は童顔というか、かわいらしい造形をしている方だとは思う。前世と比較して線は細く、26年の付き合いになったけれど、いまだにこの顔を自分だと認められず、褒められても困惑が先にきてしまう。
「先生の顔いいよね、男の人なのに無骨さがなくて」
「……面食いですか?」
「メンクイ?」
「…………失礼しました。見た目のよさを重視している、という意味です」
時折、日本語が口に出ることがある。
赤子からやり直して、こっちの言葉は自然と覚えた。だから、意識していなくても、こっちの世界の言葉を使うことができる。ただ、それでも前世の言葉が出てくるときがあって、略語なんかは最たるもので、相手に困惑されて初めて自分で口にしたのを自覚する。地方の人が方言を使うような感じだと思う。
頬が熱を持つ。こっちは恥ずかしがっているのに、アニス様は口の中で馴染ませるようにメンクイという言葉を何度も声に出す。
「いいね、メンクイ。短くてわかりやすくて」
「いえ、よくないです。貴族の令嬢が使う言葉ではありません」
「そうなんだ」
もっと言うと、この世界の人が使う言葉じゃない。そもそも、メンクイはほぼ死語で、どうあれ若い子が口にするのもどうかと思う。
「でも、わたしはいいと思ったから、使っていくね」
屈託なく笑うアニス様には、僕はなにも言えなくなってしまう。顔を覆いたくなるけど、彼女が使うと流行語みたいで、またかわいらしさもあった。どんな言葉も口にする人次第なのかもしれない。
「せめて、他の人の前では使わないでくださいね? 通じませんし」
「あはっ、先生との秘密だ。いいねー、それ」
なんだか自分で墓穴を掘っている気がしてならない。
アニス様の好意を受け入れていないのに、着々と外堀を埋められているような。
額を押さえる僕と違って、上半身を小さく前後に揺らすアニス様はどこまでも楽しげだった。
「先生の顔も好きだけど、わたしはメンクイじゃないかも。だって、顔以外も好きだから」
「――っ、……な、で」
不意打ちの告白に言葉が出てこなかった。
熱湯を被ったみたいに顔が熱くなって、金魚みたいに口をパクパクさせてしまう。どうしてこうこの子は気軽に好きって言えるんだろう。
僕なんか、今世どころか前世でだって、素直に好きって言えたことはない。いつだってその言葉を口にするのには恥ずかしさがあって、勇気が目一杯溜まったときにしか声にできなかった。
勇気の絶対量が違うのだろうか。それとも、アニス様にとっては、日常会話のひとつくらい、簡単に言えることなのか。
「やっぱり、先生はかわいいね」
手を伸ばしてくる。
その指先が頬に触れて、電流が走ったみたいだった。過敏に仰け反って、拒絶みたいになってしまったことに後悔したけど、アニス様は気にした様子もなくただ「残念」と零すだけだった。
「その……婚約者がいるのに、こういうのはいけないと思います」
精一杯の説得、というか逃げた言い訳だった。
それでも、アニス様が『好き』と告白……なのだろうか。そう受け取っていいのかは、まだ判断に迷うけれど、どうあれ言わなくちゃいけないとずっと抱えていたものだった。
でも、そんなこと俺に言われるまでもなかったんだろう。
「そうだよね」
と、アニス様は傷つく様子もなくただ僕の言葉を受け止めて、「でもね」とあらかじめ用意していたように逆説に繋げる。
「わたし、婚約者の顔も知らないんだ。だから、実感がないんだよね」
「知らない?」
「そ、これっぽっち」
顔の横で、親指と人差し指で小さく隙間を作る。その隙間は本当に狭く、コピー用紙1枚が入るかどうか。
「お父様からこの人との婚約が決まったからって、全部決まってから言われたんだ。いわゆる、政略結婚だね。あれ? まだ婚約だから、この場合は政略婚約かな? 先生はどう思う?」
「どうって」
問題のここがわからない、みたいなテンションでそんな重いことを急に尋ねられても困ってしまう。僕から話題を振ったようなものだけど、だからといってこんな重い話をされても答えられるような人生経験はしてない。生きた年数が無駄に長くても、そこに経験が伴わなければ意味がないというのがよくわかる実例だ。
我が身のことじゃなければ、深く感心していたと思う。……我が身のことじゃなければなぁ。
「言い方はどっちでもいいと思うけど」
「あ、どっちつかず」
「……政略結婚で」
優柔不断と言われたようで、ちょっとグサッときた。
「そういうのは、珍しいことなんでしょうか?」
「貴族だとそうでもないかな。生まれる前から決まってた、なんてこともあるみたいだし」
「そうなんですね……」
同情にも似た感情と、やっぱりそうなんだとう納得もあった。
日本ではまずそういう話は聞かなかった。お見合いくらいなら時折耳にしていたけど、それだって映画とかドラマとか、そういう物語の中での方が多い。
現実で耳にする機会は少なく、現実にこうして向き合うと、悪いとは思っても不憫に思ってしまう。
「同情はいらないよ」
「……ごめんなさい」
顔に出ていたのか、図星を刺されて項垂れる。
悪いと思ってるんだから、せめて顔に出さなければいいのに。表情を作る、というのはどうにも苦手だ。それは前世から変わらない僕の欠点で、ますます気分が重くなって背中が丸まってしまう。
「そういうことじゃなくて、同情しなくていいって意味」
アニス様が下から覗き込んでくる。
屈んで、僕の腰を支えにするように掴む。にーっと目が細く伸びて、僕とは違い、その表情に陰りはなく、どこまでも明るかった。
「わたしはわたしで好きにするって決めてるから。だから――先生、好きだよ」
たぶん、それは僕の言った『こういうのはいけない』に対する答えで。
彼女の教師として窘めないといけないのに、僕は言葉を忘れたように唖然とするしかなかった。
◆ ◆ ◆
村の家に帰って、ぼふりとベッドに倒れ込む。
「……疲れた」
家庭教師の仕事は長くない。
夕方前には終わり、週3~4日程度。フルタイムなんてことはなく、前世のように1日の間にあっちこっちの家を回るなんてこともないから仕事としては楽な方だ。
なのに、こうも疲れているのは肉体的じゃなくて、精神面が主だった。……特に、教え子との距離感について。
「昔もあったけど」
家庭教師が告白されるというのは、珍しいようで珍しくなかったりする。
僕が働いていたところでは、コンプラの問題で女生徒を男の教師が担当することは少なかった。それでも、担当できる女性の先生がおらず、家族や本人の同意があればないこともなかった。
だから、絶対にないとは言わないけれど、それが領主の娘で、なおかつ伯爵家の令嬢というのは経験がなかった。ただ、断っていいのか、というのも悩ましい。
「どーしよ」
飲んで忘れようかなー。
なんだかそれは駄目な大人に突き進みそうで嫌なんだけど、どの世界でも社会人とお酒は切っても切り離せないものだ。一度、誘われてしまうと抗えず、ふらふらとしながらもどうにか立ち上がる。
1階の居間に下りて、なにかお酒がなかったなー、と探していると、ノックをされた。
「……?」
まだ陽は暮れていない。
それでも、窓から差し込む光は赤みを帯びてきており、もう間もなく夜を迎えようとしている。近所の付き合いもそれなりにあるけど、この時間帯に訪ねてくる人というのはあまり想像できなかった。
「はーい、いま行きます」
声を上げて、来客者にドア越しで伝える。
棚に伸ばした手を引っ込めて、そのまま玄関に向かう。そのまま開けて――ひぅっ、と悲鳴を上げそうになった。
「来ちゃった、先生」
屈託のない笑顔は伯爵家の屋敷にいるときと変わらない。
いたずらが成功した子どものようにあどけなく笑うアニス様に、僕はただただ呆然と夢ではないのかと頬を抓ることしかできなかった。
陽はまだ空にあって、夢を見るにはまだ早い。
◆第1章_fin◆
__To be continued.