第2話 告白と婚約者

 教え子が、唐突に好意を伝えてきた。
 それは勉強机に向かっているときのことで、この国の歴史を教えているときのことだった。最初はなんのことか? と頭が真っ白になったけど、すぐに取り繕って勘違いを正す。

「あ、あー、そう。歴史の話、でしょうか? 過去、この国は他国と戦争していましたが、いまは平和主義の国となり、周囲の国とも友好関係を築けています。この国が好きというのもわからなくは」
「違うよ、先生のこと」
「……先生、という国は知りませんが」

 誤魔化そうとするけど、ニコニコと笑う教え子――アニス・ペルヴェール様は、獲物を狙う猫のように青い瞳を細める。

「先生は冗談が上手いね。それとも、躱し慣れてるのかな?」
「……女性から好意を向けられたことはありませんよ」

 今世は。

「あはっ、自分からわたしの言葉の意味が“わかってる”って白状しちゃうんだ?」

 コロコロと楽しそうにアニス様は笑う。
 確かに自白めいているけど、最初から誤魔化しと知られているのに、それを貫くほどの胆力はなかった。それに、冷静さも。内心どころか顔にも態度にも動揺が出ていて、彼女を直視できない。

 痛いくらいに目が動いて、ぐるぐるする。

「その、僕を……というのは、本当に?」
「うん、好きだよ」

 小さな頷く。その言葉に軽さを感じてしまう。それくらいにあっさりしていて、どうにも男女の好意というものは感じなかった。

「それは先生として、ですよね?」
「どうだと思う?」

 からかうような切り返しだった。
 僕を困らせて楽しいのか。いや、楽しいんだろうな。アニス様は見るからに僕の反応を楽しんでいる。逃げる鼠を追いかけて遊ぶ猫のようだ。……この比喩はなんか嫌だな。自分が狩られる側と言っているみたいで。

 年下なのに大人びた艶すら感じさせる視線に、羞恥と不安で脈が早くなる。不整脈だと訴えて早退したいところだけど、じゃあわたしが看病するよ、と言われそうな気がしなくもない。

 喉に汗が浮かぶ。まだ春先で、日本のように湿度は高くない。過ごしやすい気候だというのに、やけにここ最近は汗をかく。主に冷たい汗を。

「もちろん、先生としてですね」

 僕にはこう答えるしかなく、まかり間違っても『男して』なんて言えるわけもなかった。

「もちろん、男性として、だよ」
「ひぐっ」

 喉が鳴る。
 自分の声かもわからない変な声だった。そのことに羞恥を覚えるよりも、アニス様のような綺麗な子から好意を向けられている、その事実に体温が上昇する。

 けど、とその好意に疑いを持ってしまうのは、出会って1週間そこらという時間の短さからくるものだと思う。

「出会って間もないのに、そういうのはどうかと」
「意外と固いね? ううん、むしろらしいのかな? 恋に落ちるって言うでしょ。一目惚れだってあるよ。時間じゃない」
「恋って」

 好きという単語もなかなか鋭利だったけど、明確に恋と言われると心臓を刺されたくらいの衝撃があった。胸を押さえると、手のひらに鼓動が感じられた。
 年下の女の子相手になにをやっているのか。
 からかわれてるだけならまだいい……いや、よくはないけど、まだいい。でも、相手は領主様の娘で、僕は一介の家庭教師でしかない。冗談なら笑えはしないけど、胸を撫で下ろせる。でも、これが本気だというのなら……その、困る。

「先生はわたしのこと好き?」
「……教え子に恋愛感情を持つことはありません」
「それは建前だよね? わたしは先生の気持ちを知りたいなー」

 椅子から腰を浮かして、音もなく迫ってくる。
 まだ10代のはずなのに、豊かな体つきをしているアニス様の柔らかい起伏が当たりそうになって、咄嗟に仰け反る。その大仰な反応に「わおっ」と感嘆を上げた彼女は、少しだけ嬉しそうに頬を緩めた。

「女として意識はしてくれてるってことだね?」
「反射です」
「無意識下で反応しちゃうくらい、わたしのことが好きってことかな?」

 なにかもう無敵だった。
 どう言ったところで好意として取られる。というか、そういう風に言葉を選んでいるんだろう。26歳で、前世を合わせれば60に届かないくらい。
 年齢として凄く年上で、俺から見るとアニス様は孫世代だ。精神が肉体に引っ張られているとはいえ、孫みたいな女の子にたじたじになっているのは、大人として情けなくなる。

「とりあえず、付き合っちゃう?」
「付き合いません」

 軽すぎる。
 日本の女子高生ならそういうこともあるかもしれない。でも、ここは別の世界で、彼女は貴族の令嬢だ。あまり貴族と接する機会がないのでその手の常識は疎いのだけど、貴族令嬢というのはもう少しお淑やかなものではないのだろうか。

「貴族の令嬢って言っても、人だから。夫がいるのに浮気してるなんて珍しくないよ。ほら、王妃様とか」
「やめてやめて」

 気軽に上げていい話題じゃない。王族のゴシップとか洒落にならない。
 鈴の音のように綺麗な声で笑っているのに、その内面はそう純粋でもなさそう。前世で家庭教師をやっていたときも似たようなことはあった。世界は違えど、10代の女の子というのは年上の先生に憧れやすいのか。

 なんで生まれ変わったのに、変わらず同じ悩みを抱えているんだろう。呪われてるのかな。

「疲れた顔してるね。ぎゅってする?」
「遠慮します」

 躊躇ためらいなく両腕を広げるアニス様に手のひらを向ける。軽率にそのふくよかな胸に飛び込めば心地よいのはわかる。でも、そのあとは色々なモノが絶たれる。教師生命とか、比喩ではなく命とか。

 でも、ここからどうすればいいのか。
 暖炉の上にある置き時計を見る。短針はまだ頂点に達してはいなかった。授業もまだ半ばで、勝手に切り上げるということができない以上、この窮地は自分で乗り越えないといけなさそうだ。

「先生……」

 妖しさの伴う声にドキリとする。
 惹かれるように視線を戻すと、青い瞳で光が波のように揺れていた。ただ見られているだけなのに、その瞳には吸い寄せられるような淫靡さがあった。
 官能的で。
 机に乗っていた手に手を重ねられる。冷たく、滑らかな感触に産毛が総毛立つ。そのままアニス様は席を立ち、顔を寄せてきて――ノックの音が重なった。

「どうぞ」

 パッと身を引いたアニス様が座り直す。
 入ってきたのは屋敷の侍女で、お茶の準備ができた、という知らせだった。動揺ひとつ見せることなく、彼女は侍女に応える。その姿勢はずっと勉強をしていた、というもので、変わり身の早さに呆然としてしまう。

「先生? 休憩しよっか」
「あ、あぁ、はい」

 ね? と、小首を傾げて微笑むアニス様に、僕は力なく首を立てに振るしかなかった。
 春先に見る白昼夢。
 まるで妖精のイタズラにあったような気分で、お茶のあいだも落ち着かなかった。

  ◆ ◆ ◆

「娘はどうかな?」

 今日の授業を終えたあと、領主様に呼び出された。
 家庭教師になってから1週間。成果の確認といったところだろう。ただ、たった1週間。それも毎日ではなく、授業はまだ3日しかしていない。

 それで成果もなにもあるわけなく、領主様も同じ考えであるはずだ、たぶん。

「真面目ですね。学習に熱心というわけではありませんが、授業中はしっかりと取り組んでおります。切り替えがしっかりしている、というべきでしょうか」
「アニスは昔から要領がいいからね」

 屋敷のテラスで、領主様は優雅に紅茶を飲む。
 その気品はどことなくアニス様に通ずるものがあり、銀の髪も相まって親子なのだなと実感させる。

「えぇ、熱心です……ね」
「なにか気になることでも?」

 奥歯に物が挟まった言い方になったせいか、領主様がカップをソーサーに戻して尋ねてくる。
 まさか、預かっている娘さんに告白されました、なんて言えるわけもない。それは別の意味での告白であり、教会ならば懺悔と呼ばれそうだ。

 手の感触を思い出し、上ってくる動揺を紅茶で押し流す。

「いえ、大丈夫です」
「そうかい? こちらが無理を言って来てもらっているんだ、不都合があれば申し出てくれていい」

 なら、辞めさせてください。
 ……そう言えれば楽だったんだけど、理由を尋ねられたら口ごもるに決まっているので、それもできない。仕事的にもここを辞めさせるのは困る。
 事情はどうあれ、領主様の仕事をクビになったとなれば、まずこの地では生活できなくなるだろう。そもそも、田舎の田園地帯で教師の仕事は数えるほどだ。学校に出戻りする……というのも、できないよなぁ。

 村の子どもたちを相手に勉強を教えていたのが懐かしい。まだ1週間だけど。
 近くて遠い学校での日々を懐古していると、領主様はテーブルの焼き菓子に手を伸ばす。

「順調ならよかった。アニスは婚約し、時期がくれば嫁ぐ身だ。女だからといって、無学でいいとは私は思わないからね。これまでの家庭教師は長く続かなかったが、期待しているよ、ブラン君」
「期待に潰されないよう……え?」

 半分に割った焼き菓子にクリームを塗りながら、領主様が何気なく口にした言葉に声が出た。
 いま、なんて言ったことの人?
 身分とか礼儀とか、そういう常識をぽろっとテーブルの下に落としてしまう。

「どうかしたかい?」
「い、いえ。アニス様が婚約しているとは知らず」
「公にはしていないからね」

 雑談のような軽さだ。
 そんなことよりも大事と言わんばかりに、たっぷりとクリームの乗った焼き菓子を口にしている。でも、俺にとっては青天の霹靂で、天と地がひっくり返ったような衝撃があった。

 してるの? 婚約。…………え?