第1章

第1話 教え子は伯爵令嬢

「娘の家庭教師をやる気はないかい?」

 そんな誘いを受けたのは、授業が終わってのことだった。村の子どもたちが帰り、授業中の騒がしさとは正反対の静寂が教室を満たしている。そこに訪れたのは、若き伯爵家の当主様だった。
 私塾……つまり学校の出資者であり、この地を収める領主でもある。

 一領民でしかない僕にとっては、正に雲の上の人で、こうして対面して話すのは務めて以来、2回しかない。

「その……御息女の家庭教師、ですか?」
「あぁ。どうだろう?」

 どうと言われても。
 つい口に出そうになったけど、それを喉元で押し返す。こうして村まで下りてくる気のいい領主だけれど、気軽な口を聞いていいわけじゃない。不敬斬首みたいなことにはならない。だからといって、距離感を間違えていいわけではなかった。

 人のよい笑みを浮かべる領主様。僕は居住まいを正して、言葉を選ぶ。

「大変光栄なお誘いですが、なにぶん急なことで戸惑っております」
「ん? そうか、そうだな。失礼した。事前に知らせておくべきだったね」

 えぇ、本当に。
 内容もだけれど、こちらに顔を出すのにも先触れがほしかった。領主の肩越しに教室の外を見ると、なにやら人影が見える。学校の教師を取りまとめている老齢の女性で、その顔は見るからにハラハラしていた。

 領主様の急な来訪だ。そんな態度にもなる。

「娘の新しい家庭教師を探していてね。ブラン君ならばいいと思ったんだ」
「過分の評価をいただき恐縮です。ですが、僕などよりも相応しい方はいらっしゃると思うのですが」

 暗に断らせてくれ、と願い出てみる。
 事実、僕はただの平民だ。貴族の令嬢に勉強を教えられる身分ではない。それに、女性的な顔立ちで線も細いから性別を間違われることもあるが、それでも男だ。年頃の令嬢相手では不都合もあるだろう。

 そうした旨も伝えるが、領主様はそれでも、と仰る。

「君の働きぶりはときどき見させてもらっている。同僚にも子どもも礼儀正しく、また博識だ。村の困り事に知恵を貸すこともあると聞いている。そこらの貴族の子弟を呼ぶよりも、私は君がいいと思ったんだ」
「……ありがとうございます」

 博識、という評価に顔が歪みそうになる。
 過ぎた評価というのもある。ただ、その知識の源泉は前世のもの・・・・・だ。日本で教育を受けていれば、別世界であろうとも読み書き程度はどうとでもなるし、四則演算すら貴重な世界だ。こちらの世界で見れば、博識にも見えるはずだ。

 だからといって、貴族の令嬢に教えられるほどではない。
 なので、どうにかこうにか断りたかったのだが、なぜか両肩を叩かれてお礼を言われてしまった。

「よかった、ではよろしく頼む」
「え」

 よろしくって、まだ了承してないんですが?
 それを伝えようにも声は出なくて、領主様は満足そうに踵を返してしまった。そのまま老齢の女性教師と去っていき、ひとり残された僕は、え? としか声が出なかった。

「ありがとうが……肯定に取られた? でも、それは僕がいいと仰ってくれたことへの感謝で」

 なんて。
 言い訳を並べたところで、聞いて欲しい相手は既にこの場にはいない。このあと、まとめ役の先生から、本日まで務めていただきありがとうございました、という解雇通知を受けて、あっさりと僕は教師の職を失った。

  ◆ ◆ ◆

 はぁ……気が重い。

 翌日。
 さっそくとばかりに領主様から呼び出されて、僕は伯爵家の屋敷を訪れていた。前世の家々と比較しても、豪華な内装。汚したらどうしよう、なんて考えるのは僕が根っからの庶民だからだろうか。

 侍女の方が部屋まで案内してくれ、いま僕は伯爵家のご令嬢がおられる扉の前にいた。この一枚を挟んだ向こう側にいるのか、教え子が。

 領主様と違い、村で姿を見かけることはない。きっと、それが普通で、領主様のフットワークが過ぎるだけなんだろうけど、顔も性格も知らないのは臆する理由のひとつだ。
 傲慢な子だったらどうしよう。

 この世界に転生する前も家庭教師をやっていた。だから慣れたもの……なんてわけもなく、前世の日本ですら面倒臭かった。会社に雇われてこそいたが、契約社員みたいなものだったし、教え子は勉強嫌いも多くやる気がない。あれこれと頑張ってみても効果は薄く、親からはどうして成績が上がらないのかと責められて……いかん、記憶に蓋をしてブラック労働が溢れだしてきてててうぇっ。

 さっそく心が折れそうになっていると、侍女が扉を開けていた。待って、もう少し心の準備を。そう思ったところで侍女の手は止まらず、部屋の中へと誘われた。

「――へぇ、その人が新しい先生なんだー」

 そんな明るく、女性らしい声が僕を出迎えた。
 最初に抱いたのはかわいいだった。

 幻想的な銀色の髪。それとは対照的にその表情は快活で、笑顔が眩しいくらいだ。貴族らしい質のよい服で、長いスカートが清楚さを醸し出している。
 妖精みたいな見た目なのに、俗世的なかわいさのギャップがあった。

 貴族ってみんな、こんなに美形ばっかなのかな?
 前世の創作のようなことはないと思うけど、彼女を見るとそれも間違いではないんじゃないかと思わせた。

「どうしたの?」
「あ、いえ」

 くりっとした大きな瞳で見つめられて慌てる。
 見惚れていた――なんて言えるはずもない、恥ずかしいし。内心の動揺を隠すように咳払い。しっかりしろと自分を戒める。

「本日からアニス様の家庭教師を努めさせていただく、ブランと申します。どうかよろしくお願いいたします」
「うーん」

 自分としては、及第点くらいの無難な挨拶だったと思うのだけど、頬に人差し指を添えて彼女は悩むような反応を示した。なに? さっそくなにか粗相をした?
 不安になって不整脈のようにバクバクしていると、アニス様は「下がって」という。侍女は一度、こっちを見たけど、特になにも言わず、一礼して出ていってしまった。

 ……え? なんで?

 未婚の女性が男性とふたり切りなんて、問題でしかないはずだ。前世ですら身の危険とかいろいろと問題があったのに、貴族令嬢ともなればその意識はもっと高い。
 平民の僕ですら知っているのに……ほんとどうして。

「これでふたりっきりだね?」
「……っ」

 ぎょっとする。
 いつの間にか、その端正な顔が間近にあったからだ。近い近い。明らかに初対面の距離感じゃなく、いろいろとバグっていた。仰け反るように壁際まで下がる僕を見て、アニス様はくすくすと笑みを零す。

「いいね。いい反応だ」
「そう……ですか」

 全然よくないが。
 これはあれか、からかわれたのか。初対面からやってくれる。こういうのをメスガキというのだろうか。知らないけど。

「少しは緊張解れた?」

 どうやら気を遣ってくれていたらしい。
 それならそれでやりようはあると思うのだけど、確かに緊張は……いや全然解れたないが。むしろ、さっきよりも心臓は忙しくなく、うるさかった。

 でも、相手は領主の娘だ。
 否定するわけにもいかず、「え、えぇ」と頷いておくと、うんうんと満足そうに頷かれた。

「そっかそっか。それじゃあこれからよろしくね――先生」

 ニコッと花咲くような笑顔だった。
 その顔にまた見惚れて。
 最初からこんな調子でやっていけるのかって、不安ばかりが大きくなった。

 その予感は奇しくも、はたまた残念ながら的中することになる。

「――ごめん、先生。わたし、先生のこと好きなっちゃった」