第2部 第7章

第1話 祭の準備を始めよう

「愛しい愛しい私の旦那様、君の大好きな妻が迎えに来たよ」

 週が明けて、授業が終わった途端の出来事だった。
 それはもうご機嫌というか、飼い犬が待ち切れないと言わんばかりに尻尾を振っているような顔で、教室までユーリが迎えに来たのは。

 普段は気難しく高飛車な猫なのに、こういうときばかりは素直だった。
 いや、らしい、のか?
 猫も遊んでほしいときはすり寄ってくるというし、そういう意味ではいつもとなにも変わらないのかもしれない。

 でも、
「愛しい旦那様はやめて」
 大好きな妻も恥ずかしい。

 嬉しいとかより羞恥が勝る。よそよそしい同級生たちも、このときばかりは露骨に目を向けてきて、ご機嫌なユーリに驚いて、目を丸くしている。
 理解が及ぶと、同情的な笑みを浮かべて、逆にその反応が俺を苦しめる。憐れまれるくらいならいっそ妬まれた方がずっと良かった。

「あ・な・た?」
「クルールは死んだ」
「妻のかわいさに耐えられなかったんだね」

 罪な私……となぜ自己陶酔しているのか。
 君の旦那様、死んだんだけど? かわいさ……もあるけど、俺の心臓を刺したのは羞恥だ。このやり取りを人に見られているだけで、喉に蓋をしたような息苦しくなる。

「まぁ、そんなことはどうでもいい」
「俺の生死が路傍の石みたいな扱い」

 存在意義が見いだせないでいると、「では、行こうか」と手を取ってきた。手の冷たさが気持ちいいと思ったのも一瞬で、手を引っ張られて無理やり椅子から立ち上がらされる。

「いや待」

 静止を口にできず、その勢いのままに引っ張られる。
 教室を出る間際、振り向いたユーリは満面の笑顔で、わくわくが視界から伝わってくる。

「祭の準備を楽しもうじゃないか」

 その無邪気さに、まぁいいかと肩の力を抜いて自分で歩き出す。
 羞恥は教室に置いていき、楽しんだ方がいいと思ったから。

「祭の……準備?」

 教室を出る間際、同級生の不思議そうな声が聞こえてきて、置いてきた羞恥を拾いそうになったけど。

  ◆◆◆

「それで、なにからやろうか?」
「……あんだけ勢い込んでたのに」

 やることは考えてなかったらしい。
 俺が主体なのでそうもなるだろうが、やる気という燃料が燃えているだけでそのまま底を尽きやしないか心配になる。

 適当な空き教室を借りて、作業場とする。
 ただ広いだけで物のない部屋。時折、ダンスの練習とかで使うこともあるが、足を運ぶことは少ない。貸し出しを許可した教師はなにをするのか不審な目を向けてきたが、ニコニコの公爵令嬢の前では教壇の上のようにはいかないらしい。

 問題を起こさないように、とだけ注意を受けて、鍵を渡された。
 その鍵を手の中で弄る。

「鉱輝祭の準備をするだけで、問題なんて起きないと思うけどな」
「君は素直だね」
「……?」

 なんのこっちゃ。いいけど。

「看板かな」
「ほう……いいね」

 いいか?

「どんなのにするんだい? 文字を掘る? それとも、派手に金でも貼り付けるかい? どこかの国では金で屋敷を建てたというし、いっそ屋台ごと金にするのはどうかな?」
「寝てるの?」

 言ったら、組んだ膝の上に頭を乗せてきた。すやすやとわかりやすい寝息を口にして、その蒼い瞳で俺を見上げてくる。

「寝てるとも」
「起きてるし、目開いてるし」

 こういう話に乗っかっていくスタイルは嫌いじゃないが、いまは実現可能な話をしてほしい。
 つまり、寝言は寝て言え。

「木製の看板に塗料を使って描くくらいかな」
「それだけか、つまらないね」
「時間ないし……金で屋台とか、俺たちだけでできるわけないだろ?」
「できないとでも?」

 ユーリが不敵に笑う。
 できない……と思うが、そう自信満々な態度を取られるとできるんじゃないかと確信が揺らぐ。言うだけはタダという軽薄さはなく、やり通すという意思すら感じるほどだ。

 できるかと考えて、いやいやと首を振る。
 できてもやらないは、もったいない。貴族は好きそうだが、そこまで実家に負担はかけられない。

「可能性は無限大だとしても、やらない」
「なら、なにを描くかな」

 あっさり話題を戻すんだから、ユーリも本気でその案が通るとは思ってなかったんだろう。だったら、俺も乗っかれば良かったか? ……いや、その場合、本気にされたかもしれない。というか、絶対にする。本気に。
 不用意な発言は寿命を縮めるのは、よく知っている。

「金を扱っているとわかればいいから、金鉱石とでも書いて、適当に金の絵でも描くかな。……なにその顔?」

 目尻と口の端を下げて、やたら不満そうだ。

「遊びがない」
「看板なんて伝わればいいだろ」
「個性がない」
「何事も逸脱しないのがいいんだよ」
「起こして」
「はいはい」

 思考の飛躍に付いていけないときがある。
 人の膝の上で両腕を伸ばすユーリの肩に触れて起き上がらせる。いつまで寝てるんだ、と指摘もせず放っておいた俺も悪いけど。

 ……いまさらだけど、ユーリがこうやって気軽に触れてくるのに慣れすぎではなかろうか?
 もう少し淑女としての自覚を持てと嗜めるべきだろう。
 うん、そうするべきだ。

 咳払い。

「令嬢がそう簡単に男に触れるものじゃないぞ」
「ふむ」

 起きたユーリが小さく唸る。

「なんだか触れるのが当たり前になっている。ここは1つ嗜めるべきか? と、いったところかな?」
「………………………………材料持ってくる」

 心を読んでるのか、俺がわかりやすいだけなのか。
 非現実的であっても、そういう魔法だと言われた方がいい。

 単純とレッテルを貼られるよりは、ずっと。