第2話 酔っ払い伯爵令嬢
「えへぇ」
緩い笑いだ。
グラスの中身は既に水たまりのように浅く、半分以上も残っている僕のと比べるとその早さがわかる。
「あの……席、戻りませんか?」
「せんせぃはー、わたしの隣……いや?」
悲しそう……ということもなく、純粋な疑問といった雰囲気だった。だからといって、嫌いかどうか尋ねられて、はいそうです、と即答できるほど無神経ではない。
「嫌……ではありませんが」
でも、困る。
そう言いたかったけど、「なら、いいよねぇ」と呂律の怪しくなってきた声で、体を寄せてくる。ふにっ、と腕に当たる胸の柔らかさに体が固まった。
お酒の匂いに交じる、甘い花のような香り。香水なのか、それともアニス様特有のものなのか。どうあれ、その隙間のない近さからより鮮明に感じてしまい、まだ酔ってもないのに顔が熱くなる。
「なら、いいよね」
肯定と取られてしまう。
優柔不断というか、相手を傷つけないようにした結果、どんどん自分が不利になっていくような。優しい人は損をする。自分を優しいなんて思わないけど、そうした言葉を思い出す。
もっと強気に出るべきだろうか。
そんな考えが過ぎるが、腕で潰れる双丘にすぐに霧散した。引き剥がすのはよくないか。下心ではなく、そんな気遣いから跳ね除けることもできず、極力意識しないよう努めるしかできなかった。
「おかわりー!」
残り少なかったエールを飲み干して、アニス様は空になったグラスを掲げた。完全に出来上がっている。まだ一杯目のはずなんだけど、あまりお酒には強くないのだろうか。
こっちの世界だと、子どもがお酒を飲むこともあるのに。慣れ以上に、体質もあるのかな? と、赤ら顔の彼女を見ながら思う。
「その辺りで」
「えー? まだまだ飲めるよぉ?」
そういうには頭はうつらうつらするように揺れている。もういっぱーい! とまたグラスを持ち上げると、頼んでもないのに主人が持ってきた。こんだけ声を上げれば聞こえもするか。でも、持ってきてほしくなかったなー。
かといって、秘密の飲み会で、気まで遣ってくれているのだから、文句を言ったらそれこそ罰が当たる。僕が飲もう。そう決めて、受け取ろうとしたけど、白い手が横から伸びてきて奪っていった。
「ありがとー!」
と、それはもうご機嫌な様子で笑って、新しいエールをくぴくぴ飲み始める。そのアニス様の様子に、主人も失敗したと悟ったようで、「すまん」とひと言謝って下がっていった。
「おいしぃねー」
「……はい」
僕もグラスに口をつけるが、エールの味もアルコールもよくわからなかった。
最後にさせよう。
そう思っていたのだけど、テーブルに突っ伏するように倒れてぎょっとする。
「アニス様っ!?」
まさか、急性アルコール中毒!?
そんな心配をしたけど、その口から「すぴー」と穏やかな寝息が聞こえてきて、全身から力が抜けた。薄っすら浮かんだ汗を拭い、はぁぁあっ、と長く息を吐く。
「自由な方だ」
急な来訪に、飲んで酔っ払い、糸が切れたように眠りにつく。
アニス様と出会ってまだ間もないけど、その快活さに振り回されてばかりだった。それに困るという感情を抱きながらも、拒絶しきれていないのは、心の奥底では悪いと思っていないからなのか。
「なんて、ね」
苦笑するように笑って、グラスを呷る。温く、喉越しも悪い。それでも、ようやく感じたお酒の味に、ほぉっと息と零す。少し寝かせてあげようと思って、ひとりお酒を飲んでいると、窓は夜闇を映し、室内も暗くなっていった。
テーブルのマッチを擦り、オイルランプに火を点ける。
生前はオイルランプなんてなかったし、マッチですら使ったことはなかった。都心の方だとガス灯が普及し始めているそうだけど、こっちにはまだ広がっていない。
子どもの頃はマッチに擦るのすらおっかなびっくりだったけど、20年以上も繰り返していれば、マッチの火程度で驚くこともなかった。
オイルランプの火は、現代の電気のように明るくない。
その周囲だけが明るくて、淡く室内を照らす。小さく明滅し、影が揺れる。現代の明るさに慣れていた僕には、その弱々しい明るさが怖くて、夜を恐れていたものだ。
いまとなっては、お酒を飲むのに風情があるな、と感慨すら覚えるけれど。
そうして、夜の暗さとランプの灯火に耽っていると、アニス様が、んっと身じろぎして、テーブルからずるりと滑り落ちた。慌てて受け止めようとしたけど遅く、でも幸い僕の膝にぽてっと落ちてくれた。
ふぅ、と安心して、バッチリと目が合ってドキッとする。
「……起きてたんですか?」
「いま、起きた」
本当か嘘か。
僕程度では判別できない。ただ、目が覚めたのなら、体を起こしてほしいのだけど、アニス様は僕の膝の上に後頭部を載せたまま、半分閉じた碧眼で見上げてくる。
アルコールが残っているのか、その瞳は眠たげで、熱っぽい。
僕はその瞳が苦手だった。嫌いではなく、苦手。だって、誘われて、そのまま流れそうになるから。
「こういうの、膝枕って言うんだっけ? ちょっと固いけど、うん、いいよ」
「褒められても」
どう受け止めればいいのか。
さすりと撫でてくるものだから、ぞわっと背中が震える。その反応が面白いのか、くすくす笑って、アニス様はあー……と肺に溜まった熱を吐き出すように、満足そうに息を吐き出した。
「楽しいなぁ……こういうの、初めて」
「そうなんですか?」
目を瞬かせる。
村に下りてくるのは慣れたものだと、なんとなく思っていた。そうでなければ、今日、突然僕の家に来るなんてこともなかったはずだから。
けど、僕の予想に反してアニス様はそんなことないよ、と顔を左右に振る。膝の上で後頭部がもぞりと動いて、こそばゆい。
「わたしって、これでも伯爵家のご令嬢だから、村でお酒を飲むなんてしないんだ」
「…………知ってます」
「あ、疑ってる目だ」
「………………そんなことは」
あるけど。
容易に村の人に混じって飲んでいる姿が想像できる。ただ、村に一件のパブで見たことはないから、彼女が言っていることは本当なんだろう。
ただ、そうなるといけないことをしたんじゃないかって思う。
「僕から誘いましたけど、来てよかったんですか?」
家に上げるよりはマシ、とここまで来たけど、そもそもご令嬢にお酒を飲ませるのはよくなかったかもしれない。成人認定が早い世界で、お酒を飲む年齢もまた早い。日本のように飲水が安全じゃない、というのもある。
だから、気にしていなかったのだけど、少々、この世界に染まりすぎているのかもしれない。よくよく考えなくても、10代の少女をお酒をサシで飲むというのは、自宅じゃなくてもヤバい。
「うん、来てよかった」
答えになっているような、なっていないような、そんな返答だった。
ただ、その声は満ち足りていて、なら、いいのかなって。次は気をつけるけど。
「先生は……やっぱり違うよね」
手が伸びてくる。
頭は膝に乗ったままで、身動きが取れず逃げられない。頬に触れられて、慈しむような撫で方がくすぐったかった。親指が唇の下を伝う。輪郭を確かめるように、ゆっくりと手のひらが這う。
「だから、わたしは…………」
「アニス様?」
呼びかけても、返事はない。
ただ、目は開いていて、また寝てる、なんてことはないはずだ。僕の頬に触れたままぴたりと止まって、空いていた手を自身の口元に隠すように添えた。
見る見る青くなるその顔に、ひくっと頬が引き攣った。
「冗談ですよね?」
「…………水、くれない?」
けぷっ、となにやら恐ろしい吐息を零す。
移ったようにこっちまで顔が青くなって、慌てて水差しに手を伸ばした。
◆ ◆ ◆
「あー、死ぬかと思ったー」
新鮮な空気を吸うように、外に出たアニス様は両腕を広げた。
本当に、死ぬかと思った。
そんなに量を飲んでいなかったから、水を飲んだら落ち着いてくれたのはよかった。そうでなければ、伯爵家の令嬢としてお見せできない醜態を目撃することになっていたはずだ。考えるだけで恐ろしい。
「お酒であんな悪酔いするとは思わなかったよ」
「いつもはあんなにならないんですか?」
「んー? ならないよ。あんまり飲まないのもあるけど」
考えるようにアニス様は薬指を下唇に当てる。
あまり飲まないから慣れていないのか。それに、貴族のお嬢様が普段飲むお酒とは質も違ったはずだ。慣れない環境、慣れないお酒なら、そういうこともあるのかもしれない。
「先生ー」
「なんでしょうか?」
「疲れちゃった。泊まっていっていい?」
「……いいですよ、という返事が来ると思ってるんですか?」
「思ってる」
にししっ、と月明かりの下でもわかる白い歯を見せてくる。
どうにも僕と彼女とでは常識にズレがあるらしい。貴族と平民。それくらいに違いはあるだろう。だからといって、貴族の常識に合わせるわけにもいかないので、駄目です、と丁重にお断りする。
「やっぱりそうだよねー」
「馬車を呼びますか?」
戻って、主人に言えば用意してくれるはずだ。
けど、アニス様は即答せず、やっぱり考えるように夜空を仰いだままだ。釣られて見上げると、三日月が弧を描いている。その回りには星々が宝石を散りばめたように輝いていた。
前世では見れなかったよな。
都心に行くとまた違ってくるけど、光のない田舎だからこそ見られる光景なんだろう。いまでこそ当たり前になった。それでも、子どもの頃、最初に見上げた夜空の輝きはいまでも鮮明に焼きついている。
「うん、歩いて帰ろう!」
「危ないですよ」
「なら、送ってくれる?」
後手を組んで、くるっと顔だけ振り返ってくる。
得意げな微笑みで、まるで答えの決まった数式みたいだった。最初から答えはあって、わきりきった途中式を解かされているような感覚だ。
「……送っていきますよ」
「わっ、先生やさしー」
パッとアニス様は手を合わせる。
断れないことをわかっていただろうに、白々しい反応だ。でも、その喜びようは本物で、満更でもない気持ちにさせられるのだから、たぶん、僕は最初から負けていたんだろう。